おはようございます。

先週、中日ドラゴンズのマスコットのドアラ先生体調不良のためバンテリンドームナゴヤ開催の6試合中5試合を欠場するという衝撃の事件が起きました。

 

特に昨日(日曜日)は、前日(土曜日)に復帰したものの再び欠場という異例の事態に至り、30周年イベントが終わり緊張から解放されて一気に疲労が出たのか、それとも重病かなどファンの間に動揺が走っています。

 

土曜日も、動きがぎこちなく出演時間も僅かだったなど普段とは明らかに違ったそうで、

 

今後の出場どころかマスコット生命すら心配です(汗)。

 

そんな混乱の中、先週の中日はホームで2カード連続負け越しの2勝4敗でしたが、その原因の大部分を占める貧打は今までどおり(怒)なのでたぶん影響はないでしょう。

 

ぜひチームにはドアラ先生が安心して休めるよう、試合結果でファンを喜ばせてほしいですし、我々ファンとしては無理せず万全の体調で復帰を願いたいところですね。

 

 

3ヶ月ぶりの和歌山訪問 

 

 

さて、本題の先週末の和歌山旅行ダイジェストは、前日(金曜日)に出向元の先輩と恵比寿アクイーユで夜遅くまで歓談を満喫し、
 
また久しぶりにアクイーユのパンケーキを含むコースメニューを心行くまで味わった翌日の早朝から開始。
 
 
羽田空港ではいつもどおり、「優先レーンで入場→ANAラウンジで朝食&休憩→優先搭乗」の流れで出発し、約1時間15分のフライトを経て、
 
 
午前8時半過ぎに、今年の3月下旬以来・約3ヶ月ぶりに関西国際空港に到着します。
 
 
 
そして関西国際空港からは、JR関西空港線・阪和線を経て最後は山間部を越え(写真3枚目)、こちらも約3ヶ月ぶりとなる和歌山駅に移動しました。
 
この後は、和歌山駅のコインロッカーにスーツケースを預けてから、駅ビルの売店で昼食用の駅弁を購入し、
 
 
今年1月に奈良県側から乗って以来JR和歌山線に、今度は和歌山県側から利用します。
 
 
 
和歌山県内では紀の川に沿って県北部を東西に横断するこの路線では、まずは和歌山市を出てすぐの岩出駅で下車しますが、駅前は民家やお店こそあるもののごく普通のローカル都市といった趣でした。
 
 
さらに目的地には、駅前からローカルバスに乗って街の北の外れに向かう必要があるところ、待ち時間を活かして、
 
 
和歌山のご当地駅弁の「小鯛雀寿し」を、バス停のベンチで心地よい陽射しを受けながら賞味♪
 
あまり回転寿司などでは食べない鯛のお寿司ですが、全体にあっさり目の味付けで前日に遅くまで食事と歓談をしていたため空腹感の薄いお腹にはちょうどよかったです。
 
 
そしてローカルバスに乗ること約15分、市立図書館の近くで下車してそこから徒歩10分ほど東に進むと、
 
目的地の根来寺の大門(1845年再建)の威風堂々たる姿を、歩道から見ることができます。
 
ただ、この大門自体は本堂や講堂などが集まる中心部からは少し離れて建っており、まだ少し歩く必要がありますが、それ自体にかつての根来寺の規模の大きさが窺えました。
 

 

  真言宗の名刹にして根来衆の本拠地

 

 
そして今は伽藍もなく木々が並ぶ参道を歩き、
 
 
根来寺の正面の入山受付所で拝観券を購入して、唐風の鐘楼門(写真3枚目)まで石段を上ります。
 
 
そして鐘楼門をくぐった先が、1130年創建の古刹・根来寺の中心部であり、
 
その正面の光明真言殿(写真1枚目中央)を含め、室町時代~江戸末期までの様々な時代の伽藍が軒を連ねます。
 
 
 
そのうち最も古いものとしては14世紀末築の大師堂(写真1・4枚目)、また最も格式の高いものとして本堂に当たる大伝法院(同2・3枚目)があり、
 
 
また、平安時代開創より遺る聖天池の庭園も、奥の浮御堂のような聖天堂との調和が見事ですが、
 
その中で最大の見どころといえば、寺内で唯一国宝に指定されている大塔です。
 
1547年に建てられたこの大塔は、、木造の多宝塔(二重塔で初層の平面が方形、上層の塔身が円形に造られたもの)として日本最大を誇り、
 
 
国内に比較的多く現存する三重塔・五重塔と比べると、ずんぐりむっくりした佇まいが印象的です。
 
 
 
また入場可能な下層部は、内陣をぐるっと壁が円柱状に囲む造りとなっており、この内陣の大きさも三重塔などと比べた多宝塔の特徴だと思いました。
 
 
 
 
他には、大塔(写真2枚目)の脇の参道を奥に進んだ先に建つ奥の院(根来寺の開祖・覚鑁大師の御廟所)は、
 
 
木々に囲まれた中で神秘的な雰囲気を漂わせる、真言宗中興の祖に相応しい空間です。
 
そして根来寺は、覚鑁大師による創建・入寂以来、高野山金剛峯寺に次ぐ真言宗の中心として栄えるとともに、根来寺の僧兵組織は「根来衆」と呼ばれ、安土桃山時代には鉄砲で武装する強力な傭兵集団でもありました。
 
根来衆は、同じ紀州を拠点とする雑賀衆と異なり織田信長とは良好な関係を保ったものの、信長の後継者となった豊臣秀吉とは対立
 
1585年の豊臣秀吉による紀州征伐では雑賀衆や近隣の粉河寺などとともに徹底的な攻撃を受け、根来寺の多くの建物が焼失するとともに、武装組織としての根来衆も離散を余儀なくされました。
 
そのため、根来寺は900年近くの歴史を持つにもかかわらず近世以前で現存するのは上述の大師堂と大塔のみで、
 
 
上述の本坊(写真1~3枚目)や大伝法院などの主要な伽藍群は、いずれも紀州徳川家の庇護と支援の下で江戸時代に建立・再建されたものとなっているのです。
 
また、近代の伽藍の中でも本坊及び光明真言殿は内部のほとんどを入場見学することができ、
 
 
特にこの2つの伽藍の間に設けられた平庭(写真1・3枚目)と池庭(同2枚目)は、
 
 
 
いずれも江戸時代に整備されたもので、上掲の聖天池の庭と併せて国の名勝に指定されており、渡り廊下や建物の縁側から様々な角度で望む眺望は見応え十分でした。
 
 
それ以外にも、渡り廊下(写真1枚目)の先の光明真言殿の豪華な佇まい(同2・3枚目)や、
 
 
 
行者堂(写真1枚目)・聖天堂(同3枚目)の内部、聖天堂から望む聖天池(同4枚目)など、目当ての大塔以外にも見どころはたくさんあったというのが正直な所感です。
 
 
 
こうして根来寺の伽藍群を一通り巡った後は、紅葉の名所であるもみじ谷(写真1枚目)を渡り、もう一つの入山受付所手前のカフェ(同2枚目)周辺をブラブラ散歩。
 
回転焼」という商品名(同3枚目)に、関西らしい+議論を呼びそうと変な感想を抱きつつ(苦笑)、
 
今度はコミュニティバスに乗って、岩出駅に戻りました。
ただ、田舎らしくバスと鉄道の時刻が合わず1時間ほど駅前で過ごす必要があったため、
 

 

駅から徒歩圏内の「nico mame あん工房」に入店し、しばらく休憩することにしました。

2024スイーツ記事 #40

 

その名のとおり、和洋問わずあんを使った拘りのスイーツを提供するこのお店は、土日限定営業でイートイン可能という営業形態となっており、

 

私が訪れた時はイートインよりもテイクアウトのお客さんばかりだったように思います。

そのため、私一人で落ち着いた雰囲気を楽しみつつ、

 

個人的に目を惹いたあんバタークロワッサンを、アイスコーヒーとともにいただきました。

 

 

あん専門店というだけのことはあり、既製品っぽさのない上質なあんはもちろん、あんによく合うバターはお互いの甘味を活かしているのが好印象です。

 

ただ、クロワッサン生地はもう少ししっとり感が弱い方が良かったかなと思いましたが、この辺は個人の好みのような気がします。

 

値段も2点で800円程度とお手軽で、駅前の好立地という点(注:加えて他に駅周辺に入りやすいカフェもない)を踏まえると、週末に岩出駅前で和歌山線の時間待ちに使うには最適だと思いました。

 

 

  楠木正成に所縁の深い河内の名刹

 

 

 

この後は、岩出駅からJR和歌山線で水田や果樹林が広がる田園地帯を東に進み(写真1~3枚目)、約4年ぶりに高野山への玄関口の橋本駅(同4枚目)で下車。
 
これでJR和歌山線をコンプリートし、さらに普通なら高野山に向かうところですが、それは4年前に経験済みなのでレーダーで南海高野線の橋本駅以南と高野山ケーブルをゲットして駅メモ的に決着を付け、
 
 
何故この駅に横浜DeNAベイスターズの筒香嘉智のポスター(写真1枚目)が?と思ったら彼が和歌山県橋本市出身であることに納得し、その足で南海高野線に乗車します。
 
(ButuCC - 投稿者自身による著作物, CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=30774756による)
 
南海高野線は、大阪府大阪市浪速区の汐見橋駅から同市西成区の岸里玉出駅を経由し、和歌山県伊都郡高野町の極楽橋駅までを結ぶ南海電気鉄道の鉄道路線であり、その規模は計42駅・路線距離64.5kmです。
 
そして南河内方面から大阪への通勤と大阪方面から高野山への参拝の経路を担い、実際には岸里玉出駅から南海本線に乗り入れてなんば駅に至る運用が中心で、同駅から汐見橋駅までは通称「南海汐見橋線」と呼ばれます。
 
 
そんな南海高野線の南端は都会とは程遠い山間部となっており、峠を越すとそこはもう大阪府。河内地方では最も南に位置する河内長野市の河内長野駅で下車しました。
 
 
 
そして駅前ロータリーからバスに乗ると、都市部から東の金剛山方面に約10分移動し、
 
 
飛鳥時代末期の701年に修験道の開祖の役小角(役行者)が創建したと伝わる古刹・観心寺を訪れます。
 
 
平安時代には空海とその弟子らによって真言宗の修行寺院、歴代天皇の祈願所として発展し、以降は高野山と奈良・京都の中宿としての役割も担うようになり、
 
空海との縁では特に、815年に空海自らが刻んだ本尊で秘仏の如意輪観音菩薩像(国宝)が重要です。
 
そして、南北朝時代に活躍した楠木正成がこの観心寺を菩提寺としており、正成がこの寺の東の千早城・赤坂城に拠して鎌倉幕府を苦しめたのはあまりにも有名でしょう。
 
さて、この後は観心寺の見どころ豊かな境内を散策していきますが、記事の容量の都合から今回はここまでとします。
ではでは。