おはようございます。

X(旧Twitter)では先日、母親が男児を連れて女子トイレを利用することに続いて、女性専用の婦人科クリニックに男児を伴うことへの誹謗中傷が炎上しました。

 

これらはいずれも幼少の男児に「性」を見出すフェミニスト(笑)の変態性に起因するものであり、同じ女性でありながら男児の母を中傷するのはまさに伝統的な「女の敵は女」を地で行く態度というほかありません。

 

これも社会の一部で寛容さが失われているという一側面であると同時に、「女性専用」で男性をお断りしている本来の趣旨を読み取れない理解力不足そのものです。

 

こういったクレーム(笑)は無視するに限り、嘲笑や失笑こそしても決して相手にすべきではないでしょうね。

 

 

  4月28日(日曜日)
リュブリャナ③・イドリヤ

 

 

さて、本題のイタリア・スロベニア周遊旅行記2日目の午前中リュブリャナ城から市街を一望する眺望を満喫したところから再開します。

 

 

 

リュブリャナ城では、この後は地下の基礎部分(写真2・3枚目)や写真展示(同4枚目)などを鑑賞してから、

 

往路と同じくケーブルカーで街中に降りましたが、下車後に城に向かう行列(写真2枚目)を見て、早めに行っておいてよかったと心から思いました(汗)。

 

 

 

そしてリュブリャナ大聖堂や市庁舎(順に写真1・2枚目)が並ぶ旧市街の大通りから新市街に移動。

 

新市街の北側にあるリュブリャナ中央駅を、次の目的地への移動のため訪れます。

 

オーストリア統治下の1849年に建設され、国内鉄道網の中心であると同時に多くの国際列車も発着するこの駅は、

 

 

 

構内にマクドナルドが入っていることを除けば、全体に近代風の厳かな雰囲気が漂っており、街の玄関口からもオーストリアに似た中欧の趣を感じました。

 

 

一方、駅舎の前の中央バスターミナル(写真)は、無機質な外観・内部からいかにも社会主義時代に建てられた印象で、この2つの建物は実に対極的です(苦笑)。

 

それはそうと、次のバスの出発時間が中途半端でこの辺で昼食をとる必要があったため、
 

駅舎から通りを挟んで向かいに店を構える、いかにもローカルっぽいバーガーショップに入店し、

 

 

お手軽なチーズフライのセットを購入。

意外にチーズフライが大きめだったので(苦笑)、結果的にそこそこお腹が膨れました。

 

 

 

昼食後は、バスターミナルからローカルバスに約1時間半乗り、スロベニア西部のイドリヤに移動します。

 

 

イドリヤは、鉄道網から外れた山間部に位置する人口1万人余の小さな町で、今でこそ閑静な田舎ですが、近世~近代にかけては水銀鉱山で大きく栄え、具体的には、

 

 

イドリヤで産出された水銀は、同様に水銀鉱山を擁するスペインのアルマデンなどとともに南米で産出される銀の精錬に不可欠の存在であり、近世以降のヨーロッパへの大量の銀流入を陰で支える役割を果たした歴史があります。

 

そのため、イドリヤには水銀の採掘・精錬等に関する産業遺産が数多く現存しており、2012年にはアルマデンとともに「水銀の遺産アルマデンとイドリヤ」としてユネスコの世界文化遺産に登録されました。

 

 

そして、この水銀鉱山の街イドリヤの象徴的な観光スポットが、ガイドツアーで実際に坑道の一部を散策することができる「アントニイェフ坑道」です。

 

こちらは外観(写真1枚目)はごく普通の建物で、

 

 

 

1階部分に坑道の構造や辰砂(水銀を含む鉱石)の展示、入場前のガイダンス動画を鑑賞する講堂(同3枚目)と坑道の入口(同4枚目)が設けられています。

 

 

私たちガイドツアーに参加する観光客は、上述のガイダンス動画を鑑賞してから、無料で借りられるヘルメットとジャケット(写真1枚目)を纏い、専門ガイドの先導の下で坑道に入っていきました。

 

このアントニイェフ坑道はイドリヤでも最古の坑道で、伝説では15世紀後半に名もなきバケツ職人が水銀を発見し、この坑道から水銀(辰砂)採掘が始まったそうです。

 

 

そして1994年に閉山となるまでの約500年にわたり、深さ約400mまで掘り続けた広大な坑道のうち、約1,500m・最深22mまでが散策ルートとなっており、

 

 

当時のままの狭隘な坑道と、それに沿って置かれた人形と道具の展示を通じて、初期の手と工具のみで採掘した時代(写真)からの技術の発展を見ることができます。

 

また、最初のゆったりと下る坑道の突き当たりには、

 

鉱夫たちの安全を祈願するチャペルが設けられており、当時の人々にとっていかに水銀鉱山での労働が命がけであり、神様への祈りが切実だったかが窺えました。

 

 

次にチャペルから少し戻り、アントニイェフ坑道の主坑道をさらに緩やかに下っていく行程で、

 

 

 

採掘・運搬の方法が手作業から台車、さらにより大きな道具を使うようになる技術の発展と、

 

 

 

壁にかすかに見られる鉱石(写真1・2枚目)を目にして、近世は機械もなく採掘自体大変だったろうと思います。

 

そんな木組みなどにより精巧に整備・保全された坑道は、途中で階段(同3枚目)を降りるなど傾斜が急となり、

 

その傍らで鉱夫の人形から、機械化など着実な採掘技術の進歩(写真2枚目)が見て取れました。

 

 

 

技術の進歩という面では発破(写真1枚目)や手押し車(同4枚目)辺りは見慣れたものですし、

 

写真2枚目まで来ると、もう現代と大差ないですね。

とりわけ服装は明らかに厚手となり、増産だけでなく事故対策にも目を向けられたように思えます。

 

 

 

そんなこんなで行程の最深部に着いてからは、搬出の仕組みを図解(写真4枚目)を交えて解説を受け、シンプルながらよく考えられたフローだなあと感心しつつ、

 

 

坑道沿いの寝室や休憩室、トイレ(写真1~3枚目)などの生活の場を見て、どれだけ綺麗に整えても暗さを含めやはり厳しい労働環境だなあとも思った次第です。

 

 

最後は急傾斜の階段を気を付けつつ上って、上述のチャペルの脇に出ると、そこからは往路と同じ道を戻り約1時間の坑内散策を終えたのでした。

 

なお、散策後にはツアーガイドから水銀に関する説明を受けたのですが、

 

 

鮮やかな赤茶色の辰砂(写真1枚目)と液状の水銀(同3枚目右)を手に取る機会があり、その際に水と水銀の重さの違いを体験できたのはとても面白かったです。

 

なお、坑道のツアーガイドは英語のみのため、語学に自信のない方はこの点ご注意ください。

 

 

こうして、イドリヤの発展を支えた水銀鉱山をツアーで巡った後は、晴天の下で街中を散策しました。

 

イドリヤは、水銀の採掘で賑わった近世に多くの鉱夫や交易商とその家族が暮らすため、辺境ながらバロック様式の瀟洒な邸や鉱夫の生活を支える施設が数多く建てられ、水銀鉱山が閉山した今もその面影を残しています

 

 

例えばこの一見普通の洋風建築は、18世紀後半に水銀鉱山の医師を務めたイタリア人植物学者のジョバンニ・アントニオ・スコポリが居住した家と紹介されています。

 

スコポリは、スロベニアの植物学の発展に寄与するとともに医師として鉱夫の水銀中毒に関する論文を著し、これが水銀の毒性が世界に知られる切っ掛けの1つとなると同時に、この地域における職業病治療の萌芽となったそうです。

 

辰砂の色が血に近い、常温で液状となる特異な性質などからかつては不老不死や万病治癒の薬とされてきた水銀が、医学の発展とともに真逆の強い毒性を持つことが明らかになったという点で、学術的にも貴重な地といえます。

 

 

他には、写真2枚目の短い通りも水銀を運んだ当時のままの道という展示があり、その先には、

 

 

16世紀に建てられたゲヴェルクニック城が佇んでいました。

 

 

 

かつてイドリヤの領主が拠したこの城は、現在は市立博物館と音楽学校が入っており、規模自体はそこまで大きなものではありませんが、

 

 

中庭から見る建物の装飾からは、水銀鉱山で栄えたイドリヤの面影を見て取れました。

 

こうした近世~近代の繁栄を偲ばせる建物は、この城以外にも街のメインストリート沿いだけで、

 

城から見える高等学校(写真1枚目)や19世紀末に建てられた分離派等の複合様式の市庁舎(同2枚目)、

 

さらに水銀と違い、今もイドリヤの名産品であるレースに関する専門学校(写真1・2枚目)や土産物店(同3枚目)などを見ることができました。

 

 

 

また、メインストリートの先の住宅街も山中の小さな町に比して瀟洒な雰囲気が素敵です。

一方、水銀鉱山の街として非常にわかりやすいのが、

 

 

今は使われていない水銀の採掘施設(写真2枚目:フランシスのシャフト)や、

 

 

 かつての水銀鉱夫の家なども丘を上った先の通り沿いに並んでいた点であり、こちらは水銀鉱山と街の一体性を如実に現しているといえます。

 

 

 

 

以上、約4時間のイドリヤの市内散策を終えた後は、バスターミナル近くのカフェに入り、

 

カットにしてはやや大ぶりのケーキをいただきつつ、バスの出発時間までの間ゆっくりと休憩しました。

 

 

 

そして、往路と同じ路線バスに乗り、リュブリャナ中央駅に戻ってきたのは午後8時前

 

往復3時間・4ユーロという安さで行けるというお手軽さはとても良かったと思いつつ、夕暮れ時のリュブリャナ新市街のホテルに一度戻ります。

 

さて、この後は休憩を挟んで夜のリュブリャナ旧市街散策に向かいましたが、記事の構成の都合から今回はここまでとさせていただきます。

 

 

 

次回は2日目を終えて3日目に入り、2泊滞在したリュブリャナ観光を締め括る予定です。

ではでは。