おはようございます。

今週月曜日、出向先のプロジェクトに関連して第二種衛生管理者試験を受験しましたが、合格率は6割近くで過去問ベースで出題されるにしても試験は緊張するものです。

 

問題冊子を持ち帰ることができないため、正確な自己採点は難しいものの、個人的には手ごたえがある結果でした。

 

平日の日中にもかかわらず、この受験生の多さは50人以上の事業所に必置となっている衛生管理者のニーズの高さを感じますし、組織や法人を運営するための様々な手続・体制整備がいかに大変かがよく理解できます。

 

合格発表はイタリア・スロベニア周遊旅行中の月末なので、旅行の合間にぽちっと確認して、手ごたえどおり合格していることを願うばかりです。

 

  ヴェネツィアの歴史(先史~中世)

 

さて、本題のイタリア・スロベニア周遊旅行記の最終回は、ヴェネツィアの歴史を概説します。

 

 

先史から古代にかけて未開発の湿地帯だったヴェネツィアには、古代イタリア語を話すウェネティ人が住まい、ギリシャやローマの辺境と位置付けられました。

 

そして5世紀頃、近隣のパドヴァなど現在のヴェネト州、フリウリ=ヴェネツィア・ジュリア州の住民が、フン族やランゴバルド人のイタリア侵攻からこの湿地帯に避難し、干潟を都市防衛に活かしつつ新たな拠点とします。

 

以降、この干潟に都市が形成され、東ローマ帝国の傘下にありつつも辺境のため、干潟の主要な島がそれぞれ自治権を持つ小さな社会が複数形成されたのです。

 

 

その後、ヴェネツィアの人々は697年には伝承上の初代総督(ドージェ)とされるパオルッチョ・アナフェスト(左の肖像画)を選出し、これが以後1,100年にわたってこの地を支配するヴェネツィア共和国が成立しました。

 

なお、東ローマ帝国が正式にヴェネツィア総督の地位を承認したのは726年、アナフェストから2代後のオルソ・イパート(右の肖像画)の治世下のことです。

 

以降、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)とは良好な関係を保ちつつ自立の動きを見せ、9世紀初めにはフランク王国とビザンツ帝国の間でヴェネツィア共和国の事実上の独立性が確認されるに至ります。

 

(Facquis - 投稿者自身による著作物, CC 表示-継承 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=128455570)

 

同時にその頃、ヴェネツィアは東方のイスラム勢力やマジャール人(ハンガリー)の侵攻を撃退しており、その際の宗教的なトピックスとして、828年にエジプトのアレクサンドリアから福音書著者聖マルコの遺骸を奪い、ヴェネツィアに運んだことが挙げられます。

 

この時から、ヴェネツィアは聖マルコを守護聖人とすることになり、聖マルコの象徴である「翼のあるライオン」が共和国の国旗(上の図案)に用いられ、今に至るまでヴェネツィアのシンボルであり続けているのです。

 

その後、9世紀~12世紀にはイスラム諸国・ビザンツ帝国の両方と商業条約を結んで交易を拡大するとともに、アドリア海沿岸に支配地域を拡大していきました。

 

(Didier Descouens - 投稿者自身による著作物, CC 表示-継承 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=24209075による)

 

こうした対外進出は、ヴェネツィアの海軍力の強化と密接に結び付いており、工廠(アルセナーレ。写真)や造船所の整備、銃器の生産など最新の技術を積極的に取り入れ続けることで、16世紀には世界における造船・兵器製造の一大拠点となったそうです。

 

そんなヴェネツィアの経済・軍事両面の勢力拡大は、13世紀以降にはイスラム勢力ではなく同じキリスト教国家にも脅威を与えるようになります。

 

特に1204年の第4回十字軍によるコンスタンティノープルの侵略とラテン帝国の擁立(上の絵画)は、かつての盟主だったビザンツ帝国に甚大なダメージを与えましたし、

 

(Maximilian Dörrbecker (Chumwa) - This map results from a map request to the Kartenwünsche in the Kartenwerkstatt. You can make as well a request for a new map., CC 表示-継承 2.5, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=3968407による)

 

クレタ島(ヴェネツィア領クレタ)などの海外領土を得て東地中海最強の海軍国家となり、アドリア海沿岸の港市の多くをヴェネツィアの影響下に置きました。

 

 

この中には私も訪れたドブロブニク(写真)を首都とするラグーサ共和国やモンテネグロ・アルバニアの港湾都市などがあり、「アドリア海の女王」と称される繁栄を謳歌することになります。

 

 

(地図:Travels_of_Marco_Polo.svg: *Asie.svg: historicair 20:31, 20 November 2006 (UTC)derivative work: Classical geographer (talk)derivative work: Classical geographer (talk) - Travels_of_Marco_Polo.svg, CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=8297915による)

 

ちなみに、東地中海から黒海にかけての海域が「イタリア商人の海」ともいうべき状況になったことは、同じ13世紀に、ヴェネツィアのマルコ・ポーロが黒海北岸から中央アジアを経て元へ向かう背景ともなりました。

 

こうしてヴェネツィア共和国の版図は、14世紀末には海上貿易のライバルだったジェノヴァ共和国に勝利して自己の優位を認めさせるなどイタリア半島北部にも拡大

上の地図のピンク色の箇所
 

(© José Luiz Bernardes Ribeiro, CC 表示-継承 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=51990894による)

 

共和国といいつつ貴族階級による寡頭政治の下(写真:総督邸兼政庁だったドゥカーレ宮殿)、現在の「水の都」と呼ばれる街並みも整備されたヴェネツィアは、15世紀半ばまでの間に全盛を極めるに至ったのです。

 

 

  ヴェネツィアの歴史(近世~現代)

 

(イタリア語版ウィキペディアの-kayac-さん, CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=4771484による)

 

補足:濃赤は15世紀初頭までの領土、赤は16世紀初頭までの領土、ピンクは一時的に領有していた土地を示す。黄色い領域は制海権を持っていた海域、オレンジの線は主要な商業航路、紫の四角は商業拠点があった場所を示す。

 

こうしたヴェネツィアの繁栄は、1453年にビザンツ帝国を滅ぼしたオスマン帝国東地中海に勢力を伸ばしていく過程で終焉を迎えることになります。

 

当初、バルカン半島の海岸や諸離島を奪われつつも地中海の制海権自体は16世紀に入るまで確保し続けましたが、

 

1538年のプレヴェザ海戦において、スペイン・ヴェネツィア・ローマ教皇の連合艦隊がオスマン海軍に惨敗を喫したのを境目に、クレタ島・マルタ島を除く虎の子の地中海の制海権を失うに至りました。


以降、ヴェネツィアは周辺諸国やイタリア諸都市からの攻撃も相まって勢力を落とし、特に1571年にオスマン帝国に東地中海の拠点のキプロス島を奪われたのは痛手でした。

 

(Continentalis - 不明, CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=16501475による)

 

加えて、大航海時代に入り貿易の主要航路が地中海から大西洋・太平洋に移ったことは、ヴェネツィアの海洋国家としての地位に致命的な打撃を与え、結局、再び歴史の表舞台に返り咲くことはなかったのです。

 

その後も、造船・兵器製造の一大拠点としての地位は確保するものの(1593年にはガリレオ・ガリレイが技術顧問に就任)、その領土は一進一退ながら縮小を辿ります。

 

特に、17世紀末にギリシャのペロポネソス半島とクレタ島をオスマン帝国に占領されて以降は、バルカン半島東部の権益をほぼ失うことになりました。

 

 

そんな黄昏の約200年を経て、ヴェネツィア共和国に終止符を打ったのは、フランス革命の最中で台頭したナポレオン・ボナパルトです。

 

1797年、イタリア戦役に勝利したナポレオンは、オーストリアとの間でカンポ・フォルミオ条約を締結してオーストリアから多くの領土の割譲を受けると同時に、ヴェネツィア共和国を両国で分割することとしました。

 

その結果、1,100年の歴史を持つヴェネツィア共和国はついに滅亡し、オーストリアの統治下に入ります。

 

この後、ウィーン体制の下ではオーストリア帝国の衛星国であるロンバルディア・ヴェネト王国が成立しますが、王都はミラノに置かれ、もはやかつての海洋国家の栄華と独立は完全に失われたのです。

 

(Gigillo83 - Image:Italy 1494 shepherd.jpg, CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=12875784による)

 

そして、19世紀半ばに入ってなお諸都市・中小の王国がひしめくイタリアも、イタリア統一運動(リソルジメント)の中でサルデーニャ王国を前身とするイタリア王国が1861年に成立するなど、急速に統一が進みました。

 

このイタリア王国が主導するイタリア統一の過程において、1866年にヴェネツィアとヴェネト地方はイタリアに併合されることとなったのです。

 

(Oliver-Bonjoch - 投稿者自身による著作物, CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=4596368による)

 

統一後のイタリアでは、ヴェネト州の州都となって観光・商業・アドリア海の交易を主な産業とし、二度の世界大戦でも大きな被害を受けることはなく、中世以来の干潟と美しい街並みを維持し続けました。

 

そして現代に至り、1987年には「ヴェネツィアとその潟」がユネスコの世界文化遺産に登録

 

イタリア有数の観光名所として、ローマ・ミラノ・フィレンツェと並ぶイタリアの経済・財政を支える4都の一角を今も占めているのです。

 

以上、全3回とコンパクトにリュブリャナとヴェネツィアに絞ってイタリア・スロベニア周遊旅行の予習編をお届けしましたが、実際には両国の他の都市も巡る予定です。

 

そのため、現地ダイジェストではハイライトに留まる予定ですが、旅行記本編では他の都市の概要も適宜触れていきますので、そちらも参考にしていただきたく存じます。

 

また明日、出国前に挨拶の記事を掲載する予定のため、今回の締めはこの程度とさせていただきます。

ではでは。