おはようございます。

元旦の能登半島地震から約4週間が過ぎ、被災地ではJR七尾線が七尾駅まで運行を再開するなど、確実に復旧が進みつつあるようです。

 

ただ、元々和倉温泉もある七尾までと違い、際立った観光地のない七尾以北の奥能登エリアについては、復興以前にどこまで復旧するかを考える必要があります。

 

特にのと鉄道を路線と施設を持つJR西日本の費用負担で復旧する場合、JR西日本の経営陣は株主に不利な投資判断として株主代表訴訟を提起されるリスクもあり、国や石川県の支援が大前提となるでしょう。

 

いずれにせよ、のと鉄道の廃止も視野に入ることから、昨年11月に乗っておいて本当に良かったです(他人事)。

 

 

鏡餅の起源となった地の古社 

 

 

さて、本題の先週末の滋賀・奈良旅行は土曜日の午後、野洲駅近くでスイーツ休憩がてら時間を調整してから、ショボい方の近鉄(注:近江鉄道)のバスに乗車。

 

東海道新幹線の高架(写真2枚目奥)をくぐって約20分後、街の東部の大篠原地区で下車すると、

 

 

 

定期的に設けられた案内板とGoogle Mapを頼りに南に10分ほど歩きます。そして、ちょっとした森になった参道(写真4枚目)の先には、

 

何もない周りに似つかわしくない立派な赤鳥居が建っていますが、こちらが目的地の大笹原神社です。

 

 

平安時代中期の10世紀末の創建と伝わるこの神社は、国宝社殿を持つ古社とは思えないほど境内は簡素な佇まいで、

 

正面の拝殿(写真1枚目)と、室町時代中期(15世紀初期)の再建と伝わる国宝の本殿(同2枚目)がその分、存在感を際立たせていました。

 

本殿を近くで見ることができないため、東山文化を体現する優れた本殿の彫刻は全体像を眺めるのみでしたが、

 

 

 

その趣深い佇まいの一端は感じ取れたように思います。

また、国宝の本殿以外の見どころとしては、

 

本殿の隣の小さな社殿があり、こちらは古くから良質なもち米が取れ、鏡餅発祥の地とされる地史から「鏡の宮」と呼ばれ、鏡餅の先祖が祀られているそうです。

 

そしてもう一つ、拝殿・本殿・鏡の宮が建つ開けた場所に隣接して、大きな池があるのですが、

 

この「寄倍の池」と呼ばれる大変深い池は、その昔水不足から御輿を二基沈めて祈願したところ、日照りが続いても枯れたことがないとの伝承が残っています。 

 

本当に、1,000年以上の歴史を経ると1つ1つに色々なエピソードが付くものだと、第三者的には思いました…。

 

 

  山を祀る古社を参拝後、京都・奈良へ

 

 

こうして大笹原神社を参拝した後は、バスで一度野洲駅に戻り、また別のバスに乗り換えて市内を西に約10分

 

 

こちらは国道近くの鬱蒼と茂る森がそのまま境内となっている、伝説上の天皇の時代(欠史八代)の創建という俄かに信じがたい起源を持つ御上神社です。

 

まあ、その辺の真偽を議論すると右翼の皆さんに闇夜で刺されそうなのでさておき(汗)、

 

 

この森の参道を少し歩くと国道近くの開けた一角に出て、その奥には、

 

 

鎌倉時代後期の造営とされる立派な檜皮葺の屋根を持つ入母屋造の楼門(重要文化財)を見ることができます。

この楼門を抜けた先が境内の中心となり、

 

 

 

正面には重要文化財の拝殿(写真1枚目)、左手に神輿舎(同2・3枚目)、その奥に摂社若宮神社(同4枚目。重要文化財)を見ることができます。

 

ちなみに御上神社の神輿はいずれも貴人が中に入れるよう、小さな空間が中央に設けられていました。

 

そして最奥に建つのが国宝の御上神社本殿

鎌倉時代後期の再建・建武の新政の時期に改築されたと伝わるこの社殿は、

 

 

後背部に扉が付いているのがこの日訪れた他の神社との違いで、他にも漆喰壁及び連子窓など神社・寺院・殿舎の様式を混合させたような形が特徴的です。

 

 

正直、大笹原神社と同じく装飾自体は地味でしたが、目の前まで近寄って見られるのはよいですね。

 

 

 

以上、そんな言われなければわからない国宝建築をぐるっと眺めた後は、小さな末社(写真4枚目)まで忘れずに参拝してから境内を辞去します。

 

なお、この御上神社の御神体は神話において天之御影命が山頂に降臨したと伝わる三上山とのことで、山と神社の名前が微妙に違うのは、奈良県桜井市の大神神社と三輪山の関係を連想した次第です。

 

 

 

 

こうして野洲市の2つの国宝社殿を参拝した後は、京都駅に戻ると、目つきが微妙な「おぱんちゅうさぎ」が来ていたようで、やたら人混みができていました。

 

正直、あまりかわいいとは思えませんが私の美的感覚なんて当てにならないと割り切って(苦笑)、

 

恒例の京都駅ビル10階の京都拉麺小路に入場。

定期的に店が入れ替わるため、立地抜群な上に何度訪れても飽きないこの小路では、今回、

 

 

京都・祇園の人気ラーメン店「らぁ~めん京」を利用しました。

2024グルメ記事 #7

 

鶏の旨味とたっぷりの野菜の甘みを凝縮させたスープと細麺を売りに、奈良・滋賀・兵庫に数店舗を展開するこのお店は昨年6月に京都拉麵小路に出店したため、地元のお店というのもあり迷わず選んで、

 

鮮やかな赤を基調としたカラーリングが施された、細長い店内のカウンターに着席します。

 

そして定番の「みやこらぁ~めん」に、白ご飯と餃子3個のセット(計1,230円)をいただいたのですが、

 

 

 

これがコクがありつつも爽やかな味わいで、ご飯と餃子を付けてちょうど良いくらいのお腹の溜まり具合でした。

 

昔ながらの京都ラーメンの美味しさと万人受けする食べやすさの両立は、人気店と言われるのも納得で、試しに入ってみてよかったです。

 

今後も京都拉麺小路には、常に最先端のラーメンを楽しめるよう、適度な新陳代謝を期待しています。

 

 

 

そんな少し早めの夕食後は、JR奈良線(みやこ路快速)で奈良駅に行き、奈良駅からはJR関西本線(大和路快速)に乗り換え、この日の宿のある王寺駅に到着。

 

奈良県の西部、北葛城郡王寺町という所謂郡部に属する街のため、小さな駅舎のクソ田舎かと思ったのですが、

 

 

意外にも駅直結の商業施設(写真1枚目)があり、イルミネーションが施された高架(同2枚目)でJR・近鉄の計4路線を渡るターミナル駅というのが現実で、駅前もそれなりに栄えている印象を受けます。

 

 

あと、マスコットは聖徳太子の飼い犬「雪丸」を由来としているそうですが、こちらはさすがに眉唾やろと思いつつホテルに直行し、この日の旅路を終えました。

 

 

  町よりショボい市に残る歴史ある寺院

 

 

続く日曜日(2日目)は、やっぱり町とは思えない駅前だなあと自らの無知を反省して線路を見下ろしてから、

 

 

4年前の夏に高野山から和歌山市に帰る時に乗って以来というJR和歌山線(写真3枚目の地図の【T】)に乗り、奈良県を南下していきます。

 

JR和歌山線は、この王寺駅から和歌山県和歌山市の和歌山駅までの計36駅を結ぶ、路線距離87.5kmのローカル線で、奈良県内は金剛山地沿い、和歌山県内は紀ノ川沿いを走る両県にとって生活・観光の両面で重要な路線です。

 

沿線には歴史ある古刹がいくつもあるため、所謂経営がヤバい路線には列挙されていない和歌山線で向かったのは、

 

 

 

和歌山県橋本市に隣接する奈良県五條市五条駅です。

 

王寺駅が町でもあの賑やかさなのに対し、五條市はショボい駅舎にいかにもな田舎っぷりに、もう市を返上すべきではと思ったのは内緒です(笑)。

 

とはいえ、一応五條市(駅名は普通の「条」なので間違えそう…。)は奈良県南部の中心都市であり、

 

 

近くの国道に出ればイオンやマクドナルドが並ぶ、一応は街といってよい面持ちとなりますし、線路もJR和歌山線のみが走るにしては立派な造りです。

 

ちなみに、この五条駅の線路が2面3線とやや過大に映るのは、かつてこの五条駅と和歌山県新宮市の新宮駅を結ぶ路線国鉄五新線)の整備が計画され、

 

 

実際に途中まで工事は進んだものの、結局夢となり実現されなかった経緯も要因の一つとされています。

今は駅ホームの壁に「まぼろしの五新線に夢をのせて」と題した絵が飾ってありました。

 

まあ、木材輸送が目的とはいえ今の日本の林業の惨状を見ると、頓挫したのはやむを得ないと思います。

 

なお、その五新線の夢を引き継いだ国内最長の地方バス路線とされる「八木新宮線」が近年有名になったのは、思わぬ副産物と言えるのかもしれませんね。

 

 

 

そして五条駅前から徒歩で約20分、途中から紀ノ川の上流に当たる吉野川に沿って東に進み、

 

 

民家もまばらな街外れに建つ榮山寺を訪れました。

 

奈良時代初期の719年、藤原不比等の長男であり藤原南家の祖の藤原武智麻呂が開創したこの古刹は、

 

 

吉野川の清流を膝下にわずかに伽藍を残すのみですが、今も日向伊東家や肥後相良家など武家の名門を輩出した藤原南家の菩提寺としての地位が変わることはなく、

 

奈良南部(南和)の名刹であり続けています。

 

そのため、境内は総数こそ少ないものの1つ1つが貴重な歴史的遺産として評価が高く、例えば1553年再建の本堂の手前の石灯籠は鎌倉後期の作の重要文化財ですし、

 

 

 

塔ノ堂(写真3枚目)の手前に建つ平安後期の作の石造七重塔(同4枚目)もまた、意外にも重要文化財です。

 

 

他にも境内には神仏習合の名残を感じる御霊神社も階段の上に残っていますが、中でも最も有名な建物が、

 

本堂の東に佇む国宝建築八角円堂です。

 

この堂は、藤原武智麻呂の嫡子の藤原仲麻呂(恵美押勝)が父母追善供養のため天平宝字年間に建立され、約1,250年を経た今も当時のままの姿を残しています。

 

 

外観は平面八角形・内部は四角形の美的バランスを備えたこの堂宇は非常にシンプルではありますが、平城京及び斑鳩以外の地区にある奈良時代建築であること自体に、非常に高い歴史的価値を有するといえるでしょう。

 

 

加えて国宝はもう一つ、入口近くに建つ蔵の中には小さな梵鐘が吊り下げられていますが、青銅製のこの鐘は平安時代中期の延喜年間(10世紀初期)に造られたものです。

 

一見、普通の鐘のようですが刻まれた銘文は菅原道真の撰・小野道風の筆と伝えられる貴重なもので、京都神護寺・宇治平等院と並び「平安三絶の鐘」と評されています。

 

貴族としての繁栄は武智麻呂の弟・房前を祖とする藤原北家に譲り、都も京都・東京に移ったものの、今も残る国宝2点は藤原南家と榮山寺の格の高さを感じました。

 

 

 

こうして榮山寺を拝観した後は、五條駅からJR和歌山線に乗って途中の高田駅(大和高田市)に移動。

 

 

和歌山線と比べると少し沿線の街や民家が多いような気がしたJR桜井線に乗り換えます。

 

この高田駅と奈良駅を結ぶ計14駅・路線距離29.4kmの短距離路線は、沿線に日本最古の歌集「万葉集」に多く詠まれた名所・旧跡が点在するのもあって、こちらも存否が問題となるような閑散ぶりではありません

 

その一方で、「万葉まほろば線」とかいうダサい愛称は何とかならないのかと首を傾げつつ、この後の奈良市内観光は次回(後半)に回したいと思います。

ではでは。