こんばんは。

今週、GWのイタリア・スロベニア旅行の検討時に、今年4月からサン・マルコ広場など観光名所が集まるヴェネツィア本島に入島料を課すとの記事を目にしました。

 

所謂、観光公害(Over Tourism)対策として春~初夏の土日の日帰り観光客に限定した施策ですが、将来的には通年・全観光客に拡大される可能性も十分想像できます。

 

ちなみに、私たちがヴェネツィア本島を訪れるのは土日ではなく、そもそも本島に宿泊予定なので対象外でした。

 

日本でも京都等で観光公害が叫ばれて久しい中、例えば外国人に限定して入域料を課してQRコードで証明する、というような政策も十分現実的に感じた今日この頃です。

 

 

  8月24日(木曜日) サマルカンド⑥

 

 

さて、本題のウズベキスタン旅行記は4日目の夜、サマルカンドのレギスタン広場でライトアップとプロジェクションマッピングのショーを満喫してから、

 

 

イスラム・カリモフ像(写真1枚目)を仰ぎ見たところから再開します。

 

この後は、レギスタン広場に隣接する15世紀築のチョルスー屋内中央市場。現在は公設ギャラリーとして利用。同2枚目)を少し眺めてから、

 

 

日中はミニバスや観光客が行き交っていた一方、この時はたまに人を見かける程度だったイスラム・カリモフ通りを、心地よい夜風を受けながらゆっくり散歩しました。

 

そして、写真2枚目中央のとおり、遠目からもまるで高層ビルのように目立つ

 

ほのかにライトアップされたビビハニム・モスクの前でしばし立ち止まり、その威容を再度実感。

 

 

 

ただ、レギスタン広場と比べると観光客が夜に訪れることは少ないようで、この隣の市場が閉まっているのも相まって、全体にやや物寂しかったです。

 

こうなると、もうこれ以上アフラシャブの丘の方に向かっても無駄なので、来た道を戻り、

 

この日の締めに、レギスタン広場を再度鑑賞

前日の夜から数えて3度目ともなれば、特に新しい発見等はなかったものの、

 

 

 

前日も見た5分程度のカラフルなライトアップ(写真2~4枚目)を、また異なる表現で楽しむことができ、

 

 

丸一日、サマルカンドの魅力を心行くまで堪能したことに満足して、ホテルへの帰途に就いたのでした。

 

ちなみに、帰り道も老若男女問わず多くの人を見かけた点からは、日中は猛暑が厳しいため夜の活動時間が長いことと、街の治安の良さを繰り返し実感した次第です。

 

 

  8月25日(金曜日)
サマルカンド⑦・タシケント③

 

 

旅の実質的な最終日の5日目は、ホテルで軽めの朝食(写真1枚目)を済ませると、すぐにサマルカンドを出発し、午前中は約5時間のバス移動で終わりました。

 

 

その道程は、サマルカンドの街を出ると青空の下で田舎の集落と平地、道路しかない単調なもので、2回のトイレ休憩時に体をほぐすぐらいしかやることがなかったです。

 

 

そんな退屈な時を経て、郊外に建つタシケントの表記の構造物(写真3枚目)が見えたのはお昼過ぎ

 

タシケント市内に入って早々、まずは昼食タイムだったので朝食を軽めにしたのは正解だったと思いつつ、

 

 

朝からほとんど歩いていないので、お腹が減っていない中で恒例のサラダとスープ

 

そしてメインのシャシリクを賞味しました。

 

こちらは中央アジアの郷土料理ですが、要するに肉の串焼きなのでこれだけは美味しく完食したのは、やっぱり自分は肉好きなんだなと思います(苦笑)。

 

 

なお、写真1枚目のデザートが激甘なのは相変わらずで、日本のスイーツの繊細な甘さが恋しくなりました。

 

 

 

こうして、朝食から移動を挟んでの昼食を済ませた後は、午後のタシケント市内観光です。

 

旧ロシア帝国~ソ連時代と続く首都だけあって、無機質かつ巨大な現代建築が並ぶ街中を走り、最初に訪れたのは、

 

 

中心部から南の朱塗りと白壁の建物(写真1・2枚目)といい、向かいの門(同3枚目)といい何やら間違った和の雰囲気を漂わせる閑静な住宅街の一角でした。

 

実はこの門の先のモスクの敷地内の墓地には、第二次世界大戦末期にソ連が偽満州国及び樺太等を日帝から解放した際に保護・連行された日帝兵らのうち、現在のウズベキスタンで亡くなった方の眠る日本人墓地があります。

 

ちなみに、上掲の派手な建物は日本人抑留者に関する資料を展示する資料館だそうですが、近年リニューアルしてこんな姿に生まれ変わったとか…(汗)。

 

 

気を取り直して、ヤッカサライ・モスク(写真)の脇の遊歩道からムスリム墓地に入ると、

 

 

 

遊歩道の左右には、比較的シンプルなものから、お金をかけてそうな墓石が建つものまで色々な墓がありますが、

 

写真のように、故人の顔写真を墓石に彫る風習は日本には全くないなあと妙な感想を抱きました。

そして、こうした広い墓地の一角にひっそりと、現地の方々のご厚意か綺麗に整えられているのが、

 

このタシケントで故郷の土を踏むことなく没した79名の旧日帝兵らの眠る墓標と記念碑です。

 

小さな千羽鶴が掛かった記念碑(写真2枚目)には、この悲劇に至った経緯と故人の氏名が刻まれ、

 

 

  

また、墓地の一角に建つ石板には、ウズベキスタンで亡くなった旧日帝兵らの人数が各都市単位で記されているのを見ると、この数字の中の1人1人に人生があり、日帝の狂気に翻弄された重い事実を感じずにはいられません。

 

故人の日帝への憎悪と異国の地で散華する無念はいかばかりか、察するに余りありますが、今は緑が生い茂る静かな中で安らかに眠ることを願うばかりです。

 

 

なお、日本の宗教団体の白光真宏会が世界中に建てていて、日本でもたまに見かけるピースポールがこの墓地の片隅にも唐突に建っていたには驚きでした…(汗)。

 

 

 

そんな日本人として重みのある、けれども目をそらしてはいけない場所を参拝した後は、再び街の中心に戻りウズベキスタン歴史博物館(写真2枚目)近くで下車。

 

ただ、その目的はこの博物館の入場見学ではなく

 

初日の夜にも訪れたナヴォイ劇場です。

すでに旅行記第1回で概要は紹介していますが、上掲の日本人墓地に眠る人も、この劇場建設のために日々ボランティアに精を出したと思うと複雑な気持ちになりますし、

 

 

 

彼らの血と汗の結晶で建てられた劇場が、1966年のタシケント大地震も無傷で乗り越え、今もその姿を留めていることはその技術・労働水準の高さそのものともいえます。

 

ちなみに、劇場の向かいのロッテ・シティ・ホテル・タシケント・パレス1958年建築のクラシック様式で、劇場と併せてこの一帯に高級感を漂わせていました。

 

 

また、こちらも1日目の記事で紹介した旧日帝兵らの功績を称えるプレートですが、イスラム・カリモフ前大統領の強い意向により、「捕虜」の字句を削って現在の彼らの労苦に感謝する表現に変更されたとのことです。

 

また、故・安倍晋三元首相が首相在任時の2015年、ウズベキスタンを訪れた時に上掲の日本人墓地とこのナヴォイ劇場を訪れ、哀悼の意を表したこともありました。

 

 

(写真1枚目:首相官邸, CC 表示 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=116318676による)

(同2枚目:Prime Minister's Office (GODL-India), GODL-インド, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=107892825による)

 

お2人ともその功績には賛否両論ありますが、少なくとも互いの国と国民に敬意を持っていた点で、今、世の中に溢れる自国や他国を中傷する政治屋・活動家とは比べようもなく優れた人物だったと思います。

 

 

さて、このタシケント市内観光、そしてウズベキスタン旅行も終わりが見えてきたところですが、記事の構成の都合上、普段より短めですが今回はここまでとします。

 

次回は最終回として、タシケント市内観光を終えて帰国に至るまでを紹介した上で、このウズベキスタン旅行の総括と今後の中央アジア旅行の方針にも触れたいと思います。

ではでは。