こんばんは。

朝晩はまだ冷え込む中、出向先のオフィスビルでは雛人形が飾られ、もう春が近くなっていることを実感しました。

 

先々週末は沖縄キャンプ、そして明日からベトナムと季節感がバラバラなところを旅していると忘れがちですが、同時に梅が真っ盛りの季節であることを思い出し、先日の帰路ではつい梅の花を探していたように思います。

 

年を重ねる中で、時間の経過が体感的に速くなっているのですから。こうした日々の変化を見逃すことなく、日本の四季を満喫したいと思った今日この頃です。

 

 

【ベトナムの歴史⑥(現代①)

 

さて、フランス領インドシナ(仏印)として、フランスの植民地支配の下にあったベトナムの運命は、1939年に始まった第二次世界大戦によって急変します。

 

ヨーロッパにおいて、1940年6月にフランスがナチス・ドイツに降伏し、ドイツの傀儡政権であるヴィシー政権が樹立されると、大日本帝国(日帝)がその間隙を突き、武力進駐を行います(北部仏印進駐)。

 

これに対し、ヴィシー政権及び仏印政府(写真中央:最後の総督となったジャン・デクー)は、保身と消極的な姿勢に終始して統治権自体の確保には成功しました、

 

しかし、この北部仏印進駐は仏印から中華民国への支援の遮断には一定の成果があったものの(注:当時は日中戦争が泥沼化)、日帝と日帝のインドシナ進出を警戒するアメリカとの関係は悪化

 

1941年に入ると、日帝は来たる対米戦争に備え、サイゴン(写真)を中心とする南部にまで武力進駐を進めてしまい、この南部仏印進駐は、後の太平洋戦争に至る決定的事件(回帰不能点)だったとされています。

 

さらに同時期、仏印は隣国タイとの紛争に事実上敗れて領土を失う(タイ・仏印戦争)など、まさに踏んだり蹴ったりの時期でした(汗)。

 

ただ、日帝に全土を武力進駐され、加えて1941年12月に始まった太平洋戦争では南方作戦の拠点とされる中でも、ヴィシー政権と仏印政府は辛うじて施政権を確保します。

 

しかし、次第に日帝の戦局が悪化し、さらに1944年~1945年にかけて大規模な飢饉が起こる中、日帝は仏印の完全支配を狙って、空気と化していた阮朝皇帝のバオ・ダイ(写真)によるクーデターを支援(明号作戦)。

 

 

その結果、ベトナム帝国が成立しますが、仏印政府の傀儡だったバオ・ダイへの国民の支持は低く、現地における日帝への信頼も完全に失墜するに至りました。

 

というか、上の図案の左がベトナム帝国の国旗、右が皇帝旗だそうですが、適当に作った感満載な上(苦笑)、20世紀に入って新しく帝国を名乗るセンスが凄いです。

 

 

その後、1945年8月に日帝が連合国に降伏すると案の定、1941年に結成された独立運動組織「ベトミン(ベトナム独立同盟会)」にハノイを占領され、バオ・ダイはあっさりと降伏と退位を認める文書に署名

 

結局、半年余りでベトナム帝国は滅亡しました(笑)。

 

まあ、ベトミンの主席が後の国父ホー・チ・ミン(写真1枚目)、軍司令官がフランス・アメリカを打ち破る快挙を果たすヴォー・グエン・ザップ(同2枚目)だったことを踏まえると、あまりに相手が悪すぎますけどね。
 

 

このベトナム8月革命の結果、1945年9月にホー・チ・ミンを国家主席とするベトナム民主共和国が成立しますが、東南アジア初の社会主義国家であるこの国の独立が、すんなりと認められることはありませんでした。

 

まず、フランスとの間で1946年にインドシナ戦争が勃発すると、フランスは戦争中の1949年には廃帝バオ・ダイを推戴するベトナム国(首都:サイゴン)の独立を認め、これをベトナムの正当な政権とします。

 

 

(国章:Goran tek-en, CC 表示-継承 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=100564723による)

 

上の図案のとおり、国旗・国章ともやはり雑な印象がありますが(失礼)、ベトナム国はフランスの支援を受けてベトナム民主共和国と抗戦

 

ただ、あのバオ・ダイを担いだフランスの傀儡のベトナム国に対するベトナム人の支持は低く、一方でヴォー・グエン・ザップ率いるベトナム人民軍の士気が高かったことから、次第にフランス軍を圧倒していき、

 

1954年ディエンビエンフーの戦いでついに決定的な勝利を収めることに成功します。

 

一方、ディエンビエンフーの戦いで大敗を喫したフランスにはもはや継戦能力はなく、同年にジュネーブ協定を締結して南のベトナム国という負債を無責任に残し、ベトナムから完全に撤退するに至りました。

 

そして同時に、この後20年余りの間、北緯17度線を境に南北が分断される時代の始まりとなったのです。

 

 

【ベトナムの歴史⑦(現代②)

 

フランスの撤退後、取り残されたベトナム国の新たな後ろ盾となったのは、冷戦における西側諸国の盟主であり、世界の警察(笑)を自称するアメリカでした。

 

アメリカは、ベトナム民主共和国(北ベトナム)主導の全国統一選挙を否定した上で、ベトナム国(南ベトナム)を自らの傀儡政権としようと企み、

 

阮朝の貴族階級出身で、ベトナム国首相だったゴ・ディン・ジエム(写真中央右手前)を担ぎ上げると、バオ・ダイを退位させてベトナム共和国(南ベトナム)とし、親米反共政権を造り上げます。

この南ベトナム政権は、貧富格差の問題や政権腐敗、仏教徒に対する弾圧により成立当初から国民の支持は低く、さらに政権内の内部抗争も深刻だったことから、

 

北ベトナム首脳部と南ベトナムに潜伏する社会主義者を中心に1960年に南ベトナム解放民族戦線(上の図案:戦線旗)を結成し、抵抗運動を展開しました。

 

この南ベトナム解放民族戦線は、南ベトナム政権からは蔑称として「ベトコン」(越共=ベトナム共産党の尖兵)と呼ばれたのですが、当時は南ベトナム支持だった日本にはベトコンの名が一般に流布したそうです。

 

(Lombroso - 投稿者自身による著作物, CC 表示-継承 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=43555757による)

 

ちなみに、愛知北部~岐阜南部にかけて人気のご当地ラーメン「ベトコンラーメン」(写真)は、食べた人が元気になれるベストコンディションラーメンの略であって、上掲のベトコン由来ではないと言われています。

(注:開発当初はベトコンにあやかったと話したとの説もあり)

 

まあ、要するに「アンデスメロン」がアンデス山脈とは無関係で「安心です」の略なのと同じですね(笑)。

 

 

話を本題に戻すと(苦笑)、ベトコンに苦しめられる南ベトナムは、その鎮圧に注力する一方で、政権中枢では政争が相次ぎました

 

1963年11月に政府軍事顧問のズオン・バン・ミン(写真1枚目)が、クーデターを起こしてゴ・ディン・ジエム大統領一派を殺害し軍事政権を確立すると、その数カ月後に軍部が再度クーデターを決行

 

1965年グエン・バン・チュー(同2枚目)が軍事力を背景に大統領に就き実権を握るまでの2年間で、最高指導者が10回近く交代する混乱が続きます。

 

 

そして、こうした南ベトナムの醜態に呆れつつも背後から操るアメリカは1964年、米海軍駆逐艦が北ベトナムの掃海艇に攻撃を受けたとするトンキン湾事件を契機に、その翌年に北ベトナムに対する空爆を開始(北爆)。

 

ここに、世界最強の軍事国家と東南アジアの一社会主義国の間でベトナム戦争が本格的に始まったのです。

(正確には1962年に米軍がサイゴンに司令部を置いた時点で開始)

 

この戦争は、単にベトナムの統一を巡るものではなく、当時世界の各地で行われていた米ソ対立の代理戦争としての性質を帯びており、

 

南北ベトナムと米国を含め20カ国近くが陰に陽に参戦

 

中でも米軍は陸海空で約260万人を動員し、激しい空爆や地上軍の投入など、まさに北ベトナムの殲滅を狙うレベルの大規模作戦を展開していきました。

 

また、米国は西側のアジア・オセアニア諸国にも参戦を募っており、その中で最多の5万人の兵力を派遣したのが、朴正熙軍事政権の支配下にあった韓国です。

 

韓国軍は、まさに人間の屑としか言いようのない残酷さと差別意識の下、ベトナム各地で虐殺や陵辱を繰り返し、ライダイハンと呼ばれる韓国人と現地ベトナム人との間に生まれた子供を残して去って行きました。

 

米軍にも残虐な行為は多々見られましたが、友軍がここまで凶行を繰り返したのは現代史でも非常に稀で、今もベトナム人の一部に反韓感情が残っているそうです。

 

こうした南側の物量作戦に対し、ホー・チ・ミンとヴォー・グエン・ザップ率いる北ベトナムは、地の利を活かしたゲリラ作戦を展開して徹底抗戦。

 

特に南ベトナム全域に侵攻した1968年のテト攻勢(上の地図:戦略図)では、一時はサイゴンの米国大使館を占拠するなどアメリカに大打撃を与えました。

 

そして時を同じくして、現地における米軍の枯葉剤の散布等の非道な蛮行心身に不調を生じた退役軍人の増加に対する国内外の批判、戦争の長期化による厭戦ムードの高まりに米国政府は次第に追い詰められます。

 

ただ、停戦や和平会談は何度も中断されつつ米軍は北爆から9年間にわたって侵攻を続け、諦めの悪さを見せますが、ついに1973年パリ和平協定が締結され、米軍は戦果を得ることなくベトナムから撤退したのです。

 

その後、アメリカから見捨てられた南ベトナムは、1975年に北ベトナムの全面侵攻を受けて全面降伏

 

翌年(1976年)には、南北の統一国家であるベトナム社会主義共和国が成立し、分断の時代は終焉を迎えました

 

建国の父であるホー・チ・ミンは、戦争中の1969年に死去しましたが、彼の友とその後継者たちが、長年の悲願だった祖国の完全独立を果たしたのです。

 

 

(CC 表示-継承 2.5, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=1585655)

 

南北統一後のベトナムは、1978年にカンボジア・ベトナム戦争を起こすと、1979年2月にはカンボジアを支援する中国から侵攻を受けます(中越戦争)。

 

その起因は、カンボジア内戦に勝利したクメール・ルージュ率いる共産主義政権によるベトナムへの国境侵犯や虐殺事件にありますが、結果的に武力侵攻と見なされ、今度はベトナムが世界から批判される側となりました。

 

 

そして、ソ連とその衛星国を除いて国際的に孤立し、相次ぐ戦火で国土や経済は疲弊した危機的な状況の中にあって、実戦経験豊富なベトナム軍は多方面に善戦

 

ホー・チ・ミンの後継者のレ・ズアン(写真1枚目)の指導の下、カンボジアではクメール・ルージュ政権を崩壊させて親ベトナム政権を樹立し、一方で北部では人民解放軍を退ける戦果を上げます。

 

アメリカ・フランス・中国と五大国の過半に近現代の戦争で勝利した経験を持つ国はベトナムを除いて他になく、彼らの誇りと精強さが伺える事実です。

 

その後、カンボジア・ベトナム戦争がクメール・ルージュの残党の蜂起等によって泥沼化する中、1986年にレ・ズアンの後を継いだチュオン・チン(同2枚目)は、社会主義型市場経済を目指す「ドイモイ(刷新)政策」を開始し、改革・開放路線に踏み出しました。

 

ホーチミンシティ証券取引所。By trungydang, CC BY 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=60262614)

 

ドイモイ政策は、チュオン・チンの後任のグエン・ヴァン・リンによって推進され、農業の目覚ましい発展を皮切りに工業・金融など様々な分野に波及します。

 

さらに、国際的には1989年にカンボジアから全面撤退してカンボジア・ベトナム戦争を終結させ、1991年には中国との関係の正常化を果たし政治情勢を安定させました。

 

(国立公文書館 - 内閣広報室 - Relations of Japan and Vietnam, CC 表示 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=97231666による)

 

1991年、ドー・ムオイ(写真)が最高指導者に就くと国際協調の流れは更に加速し、独立戦争以来の宿敵だったフランスとは1993年に、アメリカとは1995年に和解

 

さらにASEAN・APEC(前者は1995年・後者は1998年)にも加盟を認められるなど周辺諸国との関係も改善し、着実に国際社会の一員としての地位を固めていきます。

 

 

 

(写真3枚目:Cục An toàn thông tin – Bộ Thông tin và Truyền thông - Tóm tắt tiểu sử Thủ tướng Chính phủ Phạm Minh Chính, CC 表示-継承 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=102959402による)

(同4枚目:IAEA Imagebank - Rafael Mariano Grossi & Vuong Dinh Hue (01911794), CC 表示 2.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=111411675による)

 

その成果は、21世紀に入ってからASEAN議長高及び国連非常任理事国に各2回選出されたことに現れており、近年は初回に触れた中国との領土問題(南沙諸島・西沙諸島)を除いて平和な状態が続いています。

 

一方で、ベトナム共産党による一党独裁(写真:「四柱」と呼ばれる現政権トップ4)が続く中で、今の中国や過去のカンボジア(クメール・ルージュ)のように、強権化と弾圧の道に向かわないかは心配なところです。

 

以上、時に不遇の時代を迎えつつも、ジャイアントキリングを何度も達成したベトナムの歴史紹介でした。

ではでは。