こんばんは。

私は今週末、予定どおり京都を訪れていますが、岸田首相が東京肺炎の5類移行に舵を切ろうとするのが別世界の話と感じるくらい、多くの観光客で混雑していました。

 

あまりに遅すぎてその意義や効果自体は疑問が尽きないものの、現状に合わせて制度を変えていくのはよいことであり、マスク着用の見直しと併せて期待したいです。

 

その上で、岸田首相にはさらに、国や地方自治体による一連の感染症対策の検証を進め、次の感染症の流行や災害に備えてほしいと思います。

 

 

12月30日(金曜日)マラッカ②

 

 

さて、深夜にマラッカのホテルに到着したのもあって、少し体に疲れが残る2日目の朝

 

まずは本館2階のレストランに向かい、レトロなお洒落空間でゆっくりと朝食をとります。

 

 

ホテル料金込みの朝食は、複数のメニュー(写真2枚目)から選べるスタイルとなっており、

 

マレーシアの伝統料理のナシレマをいただきました。

 

ココナッツミルクで炊いた長細いインディカ米を中心に置いて、周囲にはご飯のお供として、カリッと揚げた塩辛い小魚(イカンビリス)、ピーナッツ、玉子、キュウリ、そして辛子味噌(サンバル)が添えられています。

 

適宜、これらとご飯を組み合わせて食べる訳ですが、サンバルの辛さが思ったよりきつく、美味しかったものの中々食べ切るのに苦労しました(汗)。

 

 

また、パン(写真1枚目)とフルーツ(同2枚目)も付いていたため、朝からかなりのボリュームで、この日は終日この時の食べ過ぎが効いていたように思います。

 

 

そんな充実した朝食の後は、チェックアウトがてらスーツケースをクロークに預け、マラッカの市内観光を開始。

 

まずは旧市街の中心部に向かって約10分、南の方角に歩いて行きますが、その途中では早速、ビビッドさが目を惹くカラフルな建物群(写真1枚目)や、

 

 

18世紀末に創建された道教寺院「保安宮」などから、インドと中国の文化の影響を強く感じました。

 

 

 

かと思えば雑多な街並みの中にモスク(写真1枚目左)が建っていたり、何故かテキスタイルのお店の名前が「NAGOYA 名古屋」という意味不明さ(同4枚目)だったりと、突っ込みのネタが尽きることはなかったです(苦笑)。

 

確かに名古屋はかつて紡績業が盛んでしたが、敢えて異国の地でNAGOYAと名付けるメリットはよくわかりません

 

 

そして、旧市街の中心部にだいぶ近付いてきたところで、一対の塔を持つ教会が見えてきますが、

 

このセント・フランシス・ザビエル教会は、その名のとおり、1549年に日本に上陸して初めてキリスト教を伝道した宣教師であるフランシスコ・ザビエルを聖人として称えています。

 

 

そのため、教会の正面右手には、ザビエルとその従者を務めたヤジロウ(史料上では日本最初のキリスト教信者)の像が建てられていました。

 

ちなみにザビエルは、マラッカでも宣教を行っただけでなく、従者のヤジロウとこの地で邂逅した記録があり、日本だけでなくマラッカにも縁の深い人物です。

 

ただ、この時は結婚式の準備で入口界隈がバタバタしていたので、内部の見学を後回しにして、

 

シンプルながら鮮やかな赤茶色が際立つ、コロニアル様式の建築が並ぶ通りに入ります。

こちらは異国情緒たっぷりの空間ですが、セブンイレブン(写真2枚目右)があったり、

 

 

東京海上日動の支店(写真1枚目)が目に入ると、どこか妙な親近感を覚えました(苦笑)。

さらに、そんな通りを西に進んだ先には、

 

世界遺産都市マラッカの中心であるオランダ広場に辿り着き、17世紀に建てられた赤茶色の建築群が今も残るその雰囲気は、格別の美しさです。

 

 

オランダといいつつも、広場中央の時計塔や噴水は、英国統治下の1904年にヴィクトリア女王即位60年を記念して設置されたとのことで、近世以降の歴代の統治者の影響を残しているのもポイントといえます。

 

 

 

また、広場及びその周囲には、観光客のフォトスポットとなりそうなモニュメント(写真1・2枚目)のほか、トライショーと呼ばれる観光用自転車(同3・4枚目)を多く見かけますが、後者は間違いなく著作権侵害でしょう(汗)。

 

東京でいう浅草の人力車なんでしょうけど、運転が荒そうなので乗る気にはなりませんでした。

 

 

そして、オランダ広場では2つの建物に入場・見学し、1つ目は当時のオランダ総督府が統治100年を記念して1753年に創建したマラッカキリスト教会です。

 

外観がこの鮮やかな赤茶色なので、内部も豪華又はビビッドな趣なのかなと思いきや、

 

全く対照的な白をベースに、プロテスタント教会というのもあって装飾の少ないシンプルさが印象的でした。

 

 

外観の特徴である赤茶色は、わずかにステンドグラスの装飾(写真2枚目)に反映されている程度で、街の中心で心を落ち着かせて祈るにはよい空間だと思います。

 

 

さらにもう一つは、教会や時計塔の隣に建つ。1650年にオランダが総督府として建設したスタダイスです。

 

 

1824年にオランダがイギリスにマラッカの統治権を譲渡するまでの間、行政機関兼総督官邸として政治の中枢にあったこの建物は、現在はマラッカを中心にマレーシアの歴史・文化を解説する複合博物館として公開されており、

 

 

 

オランダ統治時代以来の歴史的遺構とともに、様々なテーマの展示を見て回ることができます。

 

 

入口からすぐの展示は、西欧諸国の進出前のマラッカ王国の文物から、最初にマラッカに進出したポルトガル

 

 

続いてオランダ(写真1枚目中央上はオランダ東インド会社の社旗)と、近世までのあらましに触れており、このスタダイスの源流ともいってよい内容です。

 

そして、1階をさらに奥に進むと、今度はマラッカの伝統的な文化や暮らしに関する展示が続き、

 

 

 

カラフルな中にエスニックな趣を感じるその姿は、同じアジアでも日本や中国とは風習や様式を異にし、アジアと一括りに呼称することの無意味さを感じました。

 

また、このエリアで特に目を惹いたのは、

 

マレーと中国の文化が交わり、マラッカ独自の発展を見せたババ・ニョニャ文化の調度品です。

 

 

 

豪華さの中にエキゾチックさも感じるこれらの品々は、日本人の家にあったら悪趣味な印象を受けますが(苦笑)、この空間にはしっかり馴染んでいたように思います。

 

あと、日本史でもお馴染みの農具の唐箕(写真4枚目)が展示されているのを見て、先進的な農業技術が中国から伝わったのは日本もマレーシアも同じという点に、明末清初の時代の中国の技術の先進ぶりを感じました。

 

 

この後は、やたら派手なトライショー(写真1枚目)の展示に首を傾げてから、2階に上がり、現代までのマラッカの歴史を紹介する展示を時系列順に見ていきます。

 

 

 

まずは、ポルトガル進出以前のマラッカ王国に関して、当時の宮殿の模型(写真2枚目)や、歴代国王(スルタン)の肖像画を鑑賞。

 

中東のイスラム王朝と比べると、伝統文化の影響が強く、まだまだ土着国家の枠を抜けられなかった印象です。

 

 

 

また、15世紀初めの明の鄭和の大航海については、マラッカも寄港先となり、中国文化の流入が進んだ契機の1つになったことから、別に展示スペースが設けられています。

 

それと、話は変わりますが2階の窓からは、

 

オランダ広場の全景を見下ろすことができ、広場の周りには高い建物がない中では貴重な眺望でした。

 

 

 

 

話を本題に戻すと、続いては1511年のポルトガルの征服から、ヨーロッパ風の植民都市が構築されていく様子が模型(写真2枚目)や絵画(同3枚目)、様々な文物を通じて紹介されていました。

 

 

ポルトガルが約130年、続くオランダが約180年統治しており、マラッカにおいてはイギリスの支配はこの2カ国より短かった日帝占領期を除くと約120年)のは、意外と知られていない歴史上の事実です。

 

 

とはいえ、イギリスがマラッカを海峡植民地の運営・防衛上の要衝として整備したのは間違いなく、

 

 

 

たったの4年間ながら苛烈な軍政を敷き、よくわからん紙幣(写真4枚目)を発行するなど経済的にも迷惑をかけただけの日帝とは、その功績には雲泥の差があります。

 

ちなみに、日帝の像だけがみすぼらしい兵卒(同1枚目)をモチーフにしていたのは、その統治への評価が現れているようで少し興味深かったです(苦笑)。

 

 

 

その他、文学(写真1~3枚目)や教育(同4枚目)をテーマにした博物館も併設されていますが、全部をじっくり眺める時間はなかったので、その建物の様式など興味のある部分を鑑賞するに留めました。

 

こうした複合的な博物館では、自分の興味がある分野に絞るのも、限られた時間で他のスポットや施設を効率的に巡る点では重要だと思います。
 

 

さて、この後は伝統建築が並ぶマラッカ川沿いの趣ある水辺の模様をしばし眺めてから、

 

 

 

スタダイスの裏手の丘(写真3枚目)を目指したのですが、キリがよいので今回はここまでとします。

 

次回は今週末、来週末と国内旅行が続く関係で少し先になると思いますが、引き続きマラッカ旧市街の見どころをじっくりと紹介していく予定です。

ではでは。