こんばんは。
中国・武漢に端を発した新型肺炎は、日本にも感染者の発生や株価の暴落など大きな影響を及ぼしていますが、そんな中私は先日、雨で濡れた場所で転んで左の脛を負傷しました(汗)。
物理的に「脛に傷のある」人間になってしまった訳ですが(苦笑)、現状は膝を曲げると若干痛みがある状況で、早く治ってほしいと心から思う今日この頃です。
さて、本題のチュニジア旅行記予習編は、今回から前後編の2回でチュニジアの歴史を紹介します。
古代カルタゴ・ローマの繁栄からアラブ・イスラム国家へと、この北アフリカの小国が辿った歩みを知る一助になれば幸いです。
【チュニジアの歴史(先史~近世)】
1 都市国家カルタゴの繁栄とローマの侵略
(写真2枚目:Walterlan Papetti - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=37958936による)
先史時代、チュニジアにはコーカソイドのベルベル人が先住民として定住しており(左はベルベル人の旗)、この地から北アフリカ全域に広がったとも言われています。
ちなみに、世界的に有名なベルベル人としては、元サッカーフランス代表のジネディーヌ・ジダン(写真)がいます。
(彼はチュニジアの隣国・アルジェリア系のフランス人です。)
ベルベル人は、沿岸部から北アフリカの内陸部に進出していきますが、一方で現在のシリア・レバノンを中心に地中海交易で活躍していたフェニキア人が沿岸部に移住を開始。
B.C.9世紀初めには植民市としてカルタゴを建設しました。
当初はフェニキアの植民市・貿易拠点の1つだったカルタゴは、B.C.8世紀頃に本国が近隣諸国によって制圧されると、都市国家として独立し、自ら開拓・植民市の建設を進めます。
具体的には、既存のギリシャ植民市などと抗争しながら勢力を広げ、その領土は北アフリカ沿岸部、アンダルシア、地中海諸島に及びました。(上の地図の水色部分)
こうして勢力を広げたカルタゴは、古代の地中海世界で最も繁栄した都市国家の1つとなりましたが、B.C.3世紀に入り、対岸のイタリアで勢力を伸ばす共和制ローマ(同赤色部分)との覇権争いが始まると、その運命は大きく暗転します。
カルタゴとローマは、B.C.264年~241年に始まったシチリア島の領有を巡る争いを皮切りに、3度にわたって地中海全域を舞台に激しく衝突したのです(ポエニ戦争)。
(写真1枚目:user:shakko - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=5654234による)
中でも、カルタゴのハンニバル・バルカ(左の像)とローマのスキピオ(同右)が激突した第二次ポエニ戦争(B.C.219年~210年)は、両国の本土も戦場となったほどでした。
しかし、第一次・第二次とカルタゴは善戦はするものの結局は敗北し、多くの領土の割譲と重い賠償金負担を余儀なくされます。
ただ、カルタゴは衰えてなお海上貿易で巨万の富を築き続け、ローマへの賠償金も繰り上げで支払を終えるほどでしたが、それがローマには却って脅威に映り徹底的な殲滅を決意。
ローマはB.C.149年~146年にカルタゴ市を包囲し、ついに都市国家カルタゴを滅ぼしたのです。(第三次ポエニ戦争)
この際、ローマ軍はカルタゴ市を完全に破壊し、ほとんどの住民を虐殺又は奴隷にした上で、塩で土地を埋め不毛の地にしようとしたと言われており、いかにローマがカルタゴを憎悪、又は恐れていたかがわかるエピソードといえます。
(左の図案:Ssolbergj - 投稿者自身による作品, CC 表示 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=2992630による)
(右の地図:CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=255897)
都市国家カルタゴの滅亡後、北アフリカは共和制ローマの支配下に置かれ、チュニジア全土がアフリカ属州(右の地図の赤色部分)に組み込まれました。
そして、カルタゴ市は共和制ローマ、次いでローマ帝国の下で再建され、その繁栄を取り戻すとともに、この時期にはチュニジアにローマ文化とキリスト教が浸透していきます。
なお、現存するカルタゴの遺構は、ほとんどがこのアフリカ属州時代に再建されたものとのことで、どうせ再建するなら都市国家時代の街を破壊してほしくなかったですね…(汗)。
2 チュニジアのイスラム化
(左の図案:Golradir (トーク · 投稿記録) - 投稿者自身による作品, based on work by Zikander, CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=894516による)
(右の地図:G.W. at the English Wikipedia, CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=16919768による)
ローマ帝国のチュニジア統治は、395年の東西分裂後も西ローマ帝国の下で続き、途中にゲルマン系のヴァンダル王国を挟んで、6世紀前半からは東ローマ帝国が新たな支配者となります。
しかし、7世紀に入るとイスラム・アラブ人勢力のウマイヤ朝がアラビア半島から北アフリカに進出したため、東ローマ帝国と土着のベルベル人らが共同で対抗。
約50年にわたり一進一退の攻防を繰り広げた後、698年にはウマイヤ朝がカルタゴを占領し、B.C.146年から約850年続いたヨーロッパ人の北アフリカ支配は終焉を迎えました。
なお、当初はチュニジア周辺地域のみを指した「アフリカ」は、この後アラブ人の下でイフリキア(アラビア語)に変わり、さらにこの大陸全土を指す概念へと発展したのは、意外と知られていない事実です。
こうして、8世紀にイスラム教を信仰するアラブ人がチュニジア(イフリキア)を支配するようになると、土着のベルベル人の間では、キリスト教に代わってイスラム教が広まり始めます。
また、イフリキアの中心はカルタゴから中部のケロアンに移り(写真:起源は670年に遡るケロアンのグランド・モスク)、アラブ人とベルベル人の混血・同化が急速に進んでいきます。
その後もウマイヤ朝は北アフリカ西部、さらにイベリア半島まで勢力を拡大しますが、一方で領土の拡大に統治体制が次第に追い付かなくなり、イフリキアでは反乱が相次ぎました。
(オリジナルのアップロード者はフランス語版ウィキペディアのNanoxydeさん - Travail personnel, CC 表示-継承 2.5, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=3972515による)
その後、8世紀半ばにウマイヤ朝に代わってアッバース朝が成立すると、一連の反乱を鎮圧した武将であるイブラヒム・ブン・アグラブが、形式上はアッバース朝の属国ではあるものの、イフリキアに実質的な独立王朝を建国。
アグラブ朝と呼ばれるこの国家は、10世紀初めにはシチリア島を制圧し、一時はイタリア半島南部まで進出します。
(上の地図の橙色が最盛期の領土)
しかし、910年にアグラブ朝はシーア派のファーティマ朝に取って代わられ(アグラブ朝まではいずれもスンニ派)、イフリキアから北アフリカ・アラビア半島に勢力を伸ばしました。
(上の地図の薄緑色が最盛期の領土)
ファーティマ朝は、領土の拡大に伴いエジプトのカイロに都を移すと、イフリキアの統治をベルベル人の軍人であるブルッギーン・イブン・ズィールに委ねるようになり、
(Omar-Toons - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=19231554による)
972年にはファーティマ朝を宗主とし、ズィール家を世襲の君主(アミール)と定めるズィール朝が成立します。
当初は、ファーティマ朝の下で征西やリビアの代理統治を行っていたズィール朝ですが、元々イフリキアにはスンニ派が多かったことから、次第にファーティマ朝との関係が悪化。
1051年にはファーティマ朝から離脱し、スンニ派のアッバース朝の傘下に入るに至りますが、これにファーティマ朝は激怒してエジプトからアラブ遊牧民(ベドウィン)を侵攻させました。
このベドウィンの侵攻に各地の内乱も相まって、イフリキアは大きく荒廃するとともに小国家が乱立する無政府状態に転落。
その後、150年以上もの「沈黙の時代」が続いたのです。
3 ハフス朝からオスマン帝国へ
11世紀半ばから13世紀初めにかけてシチリア王国、続いてモロッコを拠点とするムワッヒド朝といった近隣諸国が無政府状態に乗じて進出を続けた後、1228年にハフス朝がムワッヒド朝から独立すると、イフリキアはようやく平穏を取り戻します。
アラブ人国家としてはイフリキア初の長期王朝となったハフス朝は、チュニスを首都としてジェノヴァやヴェネツィア、バルセロナとの地中海貿易を積極的に行うことで繁栄。
(Gabagool - 投稿者自身による作品, CC 表示 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=6731295による)
フランス軍を主力とする第8回十字軍のチュニス包囲(1270年)も退け、その領土も地中海沿岸沿いに広げました。
(上の地図の緑色が最盛期の領土)
その後、ハフス朝は内乱と再統一を経て、約350年にわたり命脈を保ちましたが、末期にはスペインとオスマン帝国による地中海の覇権争いに巻き込まれます。
16世紀前半、この2つの大国が各々イフリキアに進出し、ハフス朝を圧迫するようになると、1535年には何とイスラム王朝でありながらスペインに臣従。
しかし、スレイマン1世(大帝)の下、最盛期を迎えたオスマン帝国の勢いは凄まじく、1574年にはチュニスを陥落させてハフス朝を滅ぼしたのです。
こうしてイフリキアを制圧したオスマン帝国は、軍司令官の「パシャ」や軍人・官僚を派遣して統治を行わせましたが、次第に彼らはその権力を世襲化し、地方領主として土着化していきます。
そして、1613年にはオスマン帝国への臣従と貢納を条件に、有力軍人のムラード家を「ベイ」とするムラード朝が成立。
ムラード家を筆頭とするトルコ系軍人を支配者層、土着のアラブ化したベルベル人を被支配者層とする体制がムラード朝、さらに次のフセイン朝(1705年成立)にわたって続きました。
以上、ここまで18世紀初めまでのチュニジアの歴史を紹介してきましたが、記事の構成の都合上、今回はこれで一区切りとさせていただきます。
次回は引き続き、近現代のチュニジアの歴史を解説して、予習編の締めとする予定です。
ではでは。