こんばんは。

月並みな表現ながら今年も残り1週間を切る中、IR(統合型リゾート施設)に関する収賄容疑自民党の秋元衆院議員が逮捕される事件が起きました。

 

ただ、この事件はあくまで1人の小物の不始末に過ぎない以上、IRの推進自体には停滞のないよう努めてほしいものです。

 

さて、今回は出発まであと2日と押し迫った南米3カ国周遊旅行の予習編・第3回として、主にスペインの植民地化以降のペルーの近世・近代史を取り上げます。

 

移民以外では日本との歴史的な繋がりが薄い、ペルーの歩みを知る機会にしていただければ幸いです。

 

 

【ペルー共和国の歴史(中編)】

 

4 スペインの植民地支配と抵抗運動の始まり

(副王領旗:Ningyou. - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=617329による)

 

ペルーの新たな統治者となったスペインは、1543年に植民地政府としてリマに首都を置くペルー副王領を設置し、インディオ(原住民の総称)らを支配しました。

 

歴代副王には、国王から任命された本国の上級貴族が赴任し、領内における行政・司法等の広範な最高権力を行使。

副王の下、16世紀後半には官僚機構が確立されます。

 

(User:Gerd Breitenbach - 投稿者自身による作品, see http://gerdbreitenbach.de/anden/index_en.html, CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=39603による)

 

このスペイン統治は、多くのインディオにとって過酷なもので、不公平な取引や交代制の有償強制労働制度(ミタ制)は、彼らの財産だけでなく命を搾取するものでした。

 

中でも、ボリビアのポトシ銀山(写真)に代表される鉱山労働は悪名高く、諸説ありますがスペインが支配した3世紀の間に800万人の犠牲を出したとも言われるほどです。

 

そんな原住民の苦難の下で発掘された銀は、スペインの黄金時代を支えただけでなく、ヨーロッパの価格革命の契機にもなり、世界経済を大きく動かしました

 

さらに、鉱山労働やプランテーション農業のために労働力を必要とした植民地政府は、アフリカから黒人奴隷を連行して酷使し、18世紀までに人種差別・階級社会を確立します。

 

しかし、こうした南米のスペイン植民地共通の差別・支配構造は、当初はインディオだけだった政府への不満を次第にクリオーリョ、メスティーソにまで広げ、その結果各地でペニンスラールに対する反乱が繰り返されました。

 

ちなみに、この反乱はしばしばインカ帝国にアイデンティティを求めたようですが、インディオはともかく白人系の人々がインカの復興を提唱するのは違和感がありますね(苦笑)。

 

(Shadowxfox - 投稿者自身による作品File:BlankMap-World-90W.svgFile:Location_ViceroyaltyPeru.pngVirreinato del Perú en 1810File:Audencias of Viceroyalty of Peru.PNG, CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=21361543による)

 

また、ペルー副王領は当初、南米のスペイン植民地を全て支配していましたが(上の地図の薄緑色)、18世紀半ば~後半に3つの副王領に分割され、現在のペルーとチリの一部を残すのみに縮小しています(上の地図の緑色)。

 

この時期、すでにスペインは覇権国家から転落していましたが、中南米ではなお4つの副王領を持つ絶対権力者でした。

 

しかし、18世紀後半にはペニンスラール優遇の改革を進める政府に対し、メスティーソ・インディオらの不満が爆発

 

インカ皇帝の子孫を自称するトゥパク・アマルー2世(肖像画)が1780年に反乱を起こすと、ペルー全土に戦火が拡大し、副王領は大きく混乱します。

 

この反乱は、内部の白人・黒人の対立などもあって、1782年のトゥパク・アマルー2世の捕縛・処刑(右の絵画)により終焉を迎えますが、副王領の威信が大きく揺らぐ契機となりました。

 

5 ペルーの独立、そして続く白人支配

そして、19世紀に入るとナポレオン戦争の影響でスペイン本国が混乱に陥る中、中南米の各地においてクリオーリョを中心に自治獲得・独立に向けた運動が活発化します。

 

そんな中、ペルーのクリオーリョは、トゥパク・アマルー2世の乱のトラウマからメスティーソやインディオを警戒し、自治運動には消極的だったため、ペルー副王がアルト・ペルー(現在のボリビア)を再獲得するなど、逆に副王領が拡大する結果となりました。

 

しかし、ラ・プラタ連合州(現アルゼンチン)スペインから1816年に独立すると、その指導者ホセ・デ・サン=マルティン(肖像画)は、チリ・ペルーの”解放”に着手します。

 

サン=マルティンは1818年にチリを解放し、さらに海路でペルーに進軍してリマを占領。1821年にはペルーの独立を宣言して議会から最高指導者(護国卿)に任命されました。

 

しかし、首都リマを追い出されたペルー副王政府が各地で抵抗を続け、さらに独立政府内の対立もあって、サン=マルティンの統治は次第に行き詰まっていきます。

 

副王政府にリマを再占領されるなど、追い込まれたサン=マルティンは北の大コロンビアを解放したシモン・ボリバールと会談し、ペルーの解放をボリバールに託しました

 

その後、ボリバール率いる解放軍はペルーに進軍して1824年にペルー副王政府を滅ぼし、さらに1826年には同政府の残党を降伏させ、ペルーからスペイン勢力を一掃したのです。

 

こうして、2人の偉大な解放者によって、ついにペルーは完全に独立を達成しましたが、独立戦争を通じて国土は荒廃し、加えて独立政府はクリオーリョ主導だったため、メスティーソやインディオ、黒人が貧困と被支配層に置かれる状況は続きました

 

 

(連合旗:Huhsunquと推定(著作権の主張に基づく) - 投稿者自身による作品と推定(同), CC 表示-継承 2.5, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=1020495)

(地図:Milenioscuro - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=8547454による)

 

ボリバールが去ったペルーでは、カウディーリョ(地方に拠点を持つ有力軍人)を中心に、隣のボリビアを巻き込んだ権力闘争・領土紛争を繰り広げます。

 

一時はペルー・ボリビア連合(1836年~1839年)として統一された両国ですが、最終的には1842年の講和条約により完全に別々の国としての道を歩むことになりました。

 

1840年代に入ってようやく国内が安定してくると、鉱物や綿花、サトウキビの輸出を軸にペルーの経済が発展し、首都リマを中心に鉄道や通信などインフラの整備が進みます。

 

さらに1854年には奴隷制が廃止され、代わりの労働力として中国人移民(苦力=クーリー)10万人以上も入ってきたそうです。

 

続く19世紀後半には、スペインの再侵攻を退けたものの(チンチャ諸島戦争。1866年)、1879年~1884年にかけて勃発したチリとの太平洋戦争(硝石戦争)に敗れ、硝石を豊富に産出する南部のアリカ・タクナを失ってしまいます

 

その結果、ペルーの経済は事実上破綻し、20世紀に本格化するアメリカとイギリスの経済支配の契機となったのです。

 

以降、ペルーでは1930年代まで大きな対外戦争はなく、1895年には独立以来初となる文民政権が成立するなど比較的政権は安定しますが、一方で世界的に民族自決運動が活発になった1920年代頃から、白人支配への不満が顕在化し始めます。

 

ちなみに、本稿の第1回で紹介した日本人のペルー移住が開始したのは、この文民政権下の1899年の出来事でした。

 

そして、この白人支配への不満の受け皿となったのが、1924年に発足したアメリカ人民革命同盟(アプラ党)(上は党旗)であり、以後はアプラ党と軍部の対立が、ペルーの歴史を動かしていくことになるのです。

 

6 繰り返される軍事クーデター

 

その後、1929年にはチリからタクナの返還を受けるものの、同年に起きた世界恐慌により、米英資本の下での輸出が中心だったペルーの経済は大きな打撃を受けます。

 

これにより、独裁色の強かった文民政権の支持は急落し、1931年には軍事クーデターにより同政権は崩壊。クーデターを主導した軍人のサンチェス・セロ(左の写真)がアフリカ系では初となる大統領に就任しました。

 

しかし、セロは領土拡大を狙ったコロンビア・ペルー戦争(1832年)に敗北すると支持を失い暗殺され、後を継いだ同じく軍人出身のオスカル・ベナビデス(同右)は、経済再建とアプラ党の弾圧に力を注ぎ、ペルー国内を安定させることに成功します。

 

 

(写真2枚目:By Eric Koch / Anefo - Nationaal Archief, CC BY-SA 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=35285167)

 

1939年には軍部が政権から手を引き、保守系政治家のマヌエル・プラード(左の写真)を大統領とする文民政権が復活しますが、同年にはヨーロッパで第二次世界大戦が勃発。

 

ペルーは大勢が決した1944年2月に連合国側で参戦し、これにより敵国民となった日系ペルー人は弾圧の憂き目に遭います。

(注:1941年の日米開戦前から排日暴動があったようです。)

 

また、第二次世界大戦中の1941年には、エクアドルとの国境紛争に勝利して領土を拡大しました。

 

その後、プラードの後を継いで1945年に大統領に就任したブスタマンテ(同右)は、十分な指導力を発揮できず、3年後の1948年にはアプラ党と海軍のクーデターにより失脚してしまいます。

 

 

(写真2枚目:By https://www.flickr.com/photos/144155804@N02/ - https://www.flickr.com/photos/144155804@N02/31714677277/, CC BY 2.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=79386529)

 

1948年のクーデター以降は、アプラ党が有力な保守支配層と協調した形での文民政権が続きますが、次第に腐敗していく政権に対し、軍部は1962年に再びクーデターを起こしました

 

ペレス・ゴドイ将軍(左の写真)を首班とする選挙監視内閣を経て、1963年には保守派のベラウンデ・テリー(同右)が軍部の後押しを受けて政権を握りますが、すぐに改革を放棄しただけでなく、大きな政治スキャンダルを起こしたのです。

 

 

これにより、文民による政治改革は不可能と判断した貧困層出身の軍人だったフアン・ベラスコ・アルバラード将軍(写真)が、1968年にクーデターを起こし政権を奪取

 

もう何度あったかわからない流れですが(汗)、これまでとの違いはベラスコ将軍が反米・自主独立を旗印に「ペルー革命」を掲げたことでした。

 

ベラスコ将軍は、伝統的な地主の小作人支配を解体した農地改革や外国資本の国有化第三世界や東側諸国との多角的外交等の左派的政策を推進しただけでなく、「インディオ」の表現の廃止など、政府として先住民への配慮を初めて示したのです。

 

しかし、理想と現実の乖離による経済の低迷と財政の悪化、加えてアメリカの強力な政治工作により、軍事政権は1980年にベラスコとその後継者の2代で終焉を迎えました。

 

 

さて、本当は今回で予習編を終える予定でしたが、予想外に記事が長くなってしまったため、一旦ここで区切りとします。

 

次回は明日、反米軍事政権の崩壊から現在に至るペルーの歴史に触れた後、ペルー国内以外で旅行中唯一訪れるイグアスの滝について簡単に解説し、予習編の締めとする予定です。

ではでは。