こんばんは。

消費税が10%に増税されるまで、間もなくあと1カ月となりますが、今回はあまり世間で「駆け込み需要」という言葉を聞かない気がします。

 

まあ、物が飽和するこの時代に、駆け込みで不要なものを購入したり、あまりに買い込み過ぎて保存が手間になるのを考えると、これも賢明な判断といえるのでしょうね。

 

 

【マレーシアの歴史(先史~近代)】

 

1 古代から続く海上交易路

さて、マレーシア旅行記予習編の第2回となる今回は、前回の概要に続いてマレーシアの歴史を紹介します。

 

先史時代、B.C.12000年~4000年の海面上昇によって形成されたマレー半島とボルネオ島には、南方からマレー人の祖先(オーストロネシア人)が進出し、B.C.1500年頃までに定着しました。

 

(Roylee - User created, CC 表示-継承 2.5, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=573928による)

 

その後、1世紀頃にはアジア・ヨーロッパを中心に航海術が発達し、古代ローマ~インド~中国(漢)の交易が活発化。

 

マレーシアは、「海のシルクロード」(上の地図の南側の航路)の一部として、沿岸部に商業拠点が整備されました。

この時、マレーシア沿岸部に進出したのが古代インド人です。

 

彼らの進出を通じて、4世紀~5世紀にかけてマレーシアを含む東南アジアのインド化が進み、この頃マレー半島で興亡したランカスカ・盤盤などの小王国には、インドと中国の文化的影響が大きく見られました。

 

(Gunawan Kartapranata - Own work by uploader,redrawed from Munoz "Early Kingdoms of the Indonesian Archipelago and the Malay Peninsula" page 128, CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=7662386による)

 

こうした小王国の割拠は7世紀半ばまで続きますが、670年にマレー系のシュリーヴィジャヤ王国が成立し、マレー半島とスマトラ・ジャワを制圧すると、状況は大きく変化します。

 

シュリーヴィジャヤ王国は、当時アジアの海上交易の主要ルートだったマラッカ海峡を拠点に中継貿易を行い、貿易で得た巨万の富を元に12世紀まで繁栄を続けました。

 

また、宗教・文化面ではヒンドゥー教と仏教の信仰が厚く、特に8世紀にジャワ島中部に建てられたボロブドゥールは、世界最大級の仏教寺院としてあまりに有名です。

 

このように、古代・中世前期のマレーシアはインドの影響を強く受け続けたといえます。

 

2 イスラム文化の浸透と西欧諸国の進出

その後、13世紀に入るとアラブ人やインド人の商人を通じて東南アジアにもイスラム教が浸透し、この地域における仏教とヒンドゥー教の時代が終焉を迎えます。

 

仏教・ヒンドゥー教を重んじたシュリーヴィジャヤ王国も13世紀後半にはほぼ勢力を失い、代わってイスラム教を信仰するマレー人による港市国家が数多く誕生したのです。

 

中でも、15世紀初めに成立したマラッカ王国(上掲:同王国の国旗)は、当時中国を支配した明の承認(朝貢関係)の下、当時全盛を極めた香料貿易の中継地として大きく発展しました。

 

(Gunawan Kartapranata - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=16975908による)

 

その領土こそ、マレー半島南部とスマトラ島東岸の一部に限られていたものの、マラッカ海峡にはインド・中東からイスラム商船が多数来航し、貿易だけでなく東南アジアのイスラム布教の拠点にもなった点は大変重要といえます。

 

なお、マラッカ王国は日本(室町時代)や琉球王国とも交易関係があったそうです。

 

しかし、マレー人によるイスラム国家の繁栄は長くは続かず、16世紀に入ると大航海時代を迎えたポルトガルが東南アジアに進出し、1511年にはマラッカを占領します。

 

そして、このポルトガルによるマラッカ統治約130年間続き、この時代のマラッカから日本に対しては、

 ○ 鉄砲伝来(1543年)

 ○ フランシスコ・ザビエルによるキリスト教伝来(1549年)

という2つの大きな歴史的変化をもたらしたのです。

 

この後、16世紀後半にポルトガルが衰退すると、今度はスペインから独立した新興国のオランダがマレー半島に進出し、ポルトガルを追い出してマラッカを占領(1641年)しました。

 

そして、オランダの統治は香辛料貿易を担う武装商社(汗)であるオランダ東インド会社が担い、その勢力はマラッカのみならずインドネシア・台湾など広大な範囲に及びました。

 

オランダの統治時代は、19世紀初めまでの約180年間続き、1799年にオランダ東インド会社が解散して以降は、オランダの直接支配を受けます。

 

なお、このポルトガル・オランダ、そして後述するイギリスの統治下において、キリスト教がマレーシアに伝来しますが、イスラム教ほど庶民には浸透せず、前回の概要で触れたとおり現在は国民の9%程度の信仰に留まっています。

 

そして18世紀末には、いよいよ腹黒紳士ことイギリスペナン島を獲得(1791年)したのを皮切りに、マレー半島への進出を開始するのです。

 

3 イギリスによるマレーシア統一

 

18世紀末のイギリスは、インドの植民地化を着実に進める中、一度はオランダの進出に押されて撤退した東南アジアを新たなターゲットに選びました。

 

1791年にペナン島を、1819年にシンガポールを支配し、さらにスマトラ島西海岸にも拠点を築いたイギリスは、対立するオランダと1824年英蘭協約を締結してマラッカを獲得します。

オランダは代わりにスマトラ島西海岸を獲得。)

 

これは、すでに列強の座から転落し、蘭領東インドシナ(現インドネシア)統治に専念したいオランダと、マレー半島を自らの拠点としたかったイギリスの思惑が一致した結果でした。

 

(CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=1439960を加工)

 

ペナン・シンガポール・マラッカを海峡植民地として統合したイギリスは、続いてマレー半島全土とボルネオ島北部に進出して、1909年には現在のマレーシア全土を植民地化します。

 

この海峡植民地とマレー半島を合わせた英領マラヤ(上の地図の緑色部分)、そして英領北ボルネオ(同赤色部分)の成立をもって、第二次世界大戦後の独立まで続くイギリスの統治が確立したのです。

 

(Mortadelo2005 - Image:Borneo2 map english names.PNG, by Astrokey44, CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=2137950による)

 

なお、ここまでマレー半島とマラッカを中心にマレーシアの歴史について解説する中、唐突に英領北ボルネオが登場したため、ここで少しボルネオ島の歴史について触れます。

 

ボルネオ島は、マレー半島と同じく7世紀頃まで中国とインドの影響を受けたものの、中世を通してシュリーヴィジャヤ王国のような統一勢力が生まれることはなく、海岸沿いを中心に多くの部族共同体が併存していました。

 

その後、13世紀にはイスラム化が進み、各地の部族は「スルターン」を戴く港市国家に変貌していく中、台頭してきたのが

 

現在のブルネイ・ダルサラーム国です。

続く大航海時代には、ボルネオ島にポルトガル、そしてフィリピンを制圧したスペインが東方から進出。

 

16世紀にはスペインとポルトガルが東西から、両国の衰退後の17世紀にはオランダが南部から北上して勢力を伸ばしました。

 

その結果、イギリス進出前の18世紀末には、北部がブルネイと諸スルタン・南部がオランダ領となったのです。

 

 

19世紀前半、イギリス人探検家のジェームズ・ブルック(左の肖像画)と英国駐留軍が、ブルネイ側の要請に応じてブルネイ国内の反乱鎮圧を支援

 

その褒章として、ブルックはボルネオ島北西部・サラワクの藩王の地位を得て、ここにサラワク王国が誕生します。

(右の図案:サラワク王国の国旗

 

この時、ブルネイはブルックを一代限りの小藩王に封じたつもりでしたが、そこはさすが腹黒紳士のイギリス(苦笑)。

ブルックは本国の後ろ盾を得て、ブルネイを侵略して国土のほとんどを奪い、世襲制の白人国家を確立しました。

 

まさに「庇を貸して母屋を取られる」の典型例ですが、これを平然と行うイギリスはさすがの畜生ぶりです(汗)。

 

そして、1882年にイギリス商人が設立したイギリス北ボルネオ会社が北ボルネオを占領、さらに1888年にはイギリスがサラワク王国を保護国化し、英領北ボルネオが成立しました。

 

以上、イギリスの植民地化まで説明したところで、キリがよいので今回はここまでとします。

ではでは。