こんばんは。

先週末、中日ドラゴンズの与田監督が一部の応援歌の歌詞(「お前」)に不快感を示し使用自粛に至りましたが、せっかくの交流戦終盤の良いムードに水を差す騒動に正直うんざりです。

(しかも直後に巨人に三連敗(怒)。)

 

与田監督は「子供の教育に悪い」と考えているようですが、借金続き&6年連続Bクラスの惨状の方がよほど名古屋の子供に悪影響な気がするのは私だけでしょうかね…。

 

本当、応援に文句言う前にさっさと借金返せって話です(呆れ)。

 

 

【モルドバ共和国の概要(後編)】

 

さて、本題の来週末に迫ったウクライナ・ベラルーシ・モルドバ旅行記予習編は、モルドバの概要の続きから再開します。

 

3 国際関係

モルドバは、元々は中世にルーマニア人が建国したモルダヴィア公国の一部だったのと、モルドバ人がルーマニア系という歴史的・民族的背景から、ルーマニアとは固い友好関係にあります。

 

ただ、ルーマニアを含む他国から「ルーマニアの一部」と思われるのは嫌なようで、統合の動きまでは存在しません

 

また、外交方針としてはEU加盟を長期的な外交目標としており、旧ソ連諸国の中では親欧米派と考えられています。

とはいっても、天然ガス等のエネルギー資源をロシアに大きく依存しており、その経済・軍事的影響は未だに大きい状況です。

 

そして、日本との関係では、1991年の独立直後に国家承認・外交関係を開設しており、主に人道・経済・技術など様々な面で日本が援助・支援を行っています。

 

なお、モルドバ関連で日本では一番有名と思われるのが、2005年頃に「マイアヒ~」のノリが話題となった「恋のマイアヒ」。

この歌を出した音楽グループ「O-ZONE(オゾン)」が実はモルドバ出身というのは、意外と知られていません(笑)。

 

4 経済・社会

続いて、モルドバの経済・社会を概観します。

 

まず、通貨は1991年の独立以来、モルドバ・レウを採用しており、9種類の紙幣(1~1,000)の表面の肖像画が全てシュテファン大公&背景の色違いという点に、モルドバの民族的英雄の少なさを感じます(涙)。

 

ただ、国の経済の不安定さから、アメリカドル・ユーロも非公式通貨として流通・通用しているようです。

 

次に、主要な経済指標を見ると、2017年時点のモルドバのGDPは95.6億ドル、国民1人当たり換算では2,690ドルとなり(出典:IMF)、ともにヨーロッパでは最低レベルの水準に留まります。

1人当たりベースではフィリピンとほぼ同じ…。)

 

そして経済の規模・水準ともに小さいモルドバの主要産業は、小麦やブドウ、トウモロコシ、煙草などの農業です。

 

 

中でも、ブドウを原料としたワイン(写真1枚目:キシニョフ郊外の世界最大のワインセラー)や、トウモロコシの粉で作る郷土料理のママリガ(同2枚目)が名物となっています。

 

他にも軽工業(衣服・家具)や卸・小売業などが経済を支えていますが、農業を含めていずれも所得水準が低いことから、独立以来、経済は低調が続いているのが現状です。

 

加えて、エネルギー資源や重工業製品の海外依存重要な工業地帯(モルドバ全体の1/3の工業生産力)だった沿ドニエストル地方の事実上の独立などの問題を抱えています。

 

ただ、内戦状態の隣国ウクライナに比べると経済的には安定しており、近年は国民1人当たりGDPなどの各種指標でウクライナを抜き去ったのは興味深い話です。

 

なお、近年は観光にも力を入れるようになっており、当面は引き続きIMFと協調して、構造改革・新産業創出等に取り組む見通しです。

 

(出典:外務省ウェブサイト)

 

最後にモルドバの治安については、外務省の海外安全情報によると、事実上独立状態にある沿ドニエストル地方に注意喚起(レベル1)が発令されているものの、通過するだけなら特に問題はないようです。

 

ただ、貧困国の悲しい現実として、悪徳警官や児童買春(客引き)などが横行している点は、首都キシニョフを歩く際には特に注意したいと思います。

 

 

【モルドバ共和国の歴史(前編)】

 

1 20世紀まで続いた、諸帝国の抗争の地としての歴史

(CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=259543)

 

予習編の最後に、モルドバの歴史について紹介すると、紀元前においてルーマニアを中心とする地域「ダキア」の一部(上の地図の黒枠の北東部)だったことから始まります。

 

その後、ローマ帝国のバルカン半島進出に伴い属州となりますが、3世紀後半には軍人皇帝の乱立により帝国内部が混乱する中でローマ軍が撤退してしまいます。

 

その結果、モルドバは早々にローマ文化の影響から離れ、以後中世の半ばまでキエフ大公国やモンゴル帝国といった、北方の諸勢力の侵略を受けたのです。

 

(CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=88823)

 

しかし、14世紀に入るとルーマニア人がモンゴル帝国の衰退を見て北進し、さらに1349年にはハンガリー人・スラブ人らを破り、現在のルーマニア北東部・モルドバ・ウクライナ南西部(上の地図の黄色)にモルダヴィア公国を建国します。

 

歴代のモルダヴィア大公は、有力貴族の間の抗争に悩まされつつ、建国から15世紀にかけて勢力を拡大

 

1457年に即位したシュテファン3世(大公)の下において、公国はその最盛期を迎えたのです。

(写真はキシニョフのシュテファン・チェル・マレ公園に建つ大公像)

 

シュテファン大公は、国内では中央集権を確立させるとともに、当時バルカン半島を席巻したオスマン帝国と激しい攻防戦を繰り広げ、1504年に死去するまでの50年近い在位の間、大公国を懸命に守り続けました

 

そのため、シュテファン大公はモルドバの民族的英雄とされ、現在もモルドバ・レウ紙幣に肖像画が描かれたり(上述)、国内各地にその功績を讃える像が建てられています。

 

(CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=692537)

 

しかし、シュテファン大公の死から5年後の1512年には、ついにモルダヴィア公国はオスマン帝国の従属国となりました。

 

とはいっても、オスマン帝国の支配は緩やかで、他のバルカン半島諸国と異なり、地元貴族による自治を大幅に認めたことから、イスラム支配の面影はほとんど残っていないそうです。

 

こうしたオスマン帝国の支配は18世紀後半まで約300年続きますが、18世紀に入ると北方のロシア帝国が、同じ正教徒の保護を名目に南下を開始し、モルドバを含むモルダヴィア地方は両帝国の抗争の最前線となります。

 

18世紀を通して繰り返された戦争の結果、ロシア帝国は1792年に東端の沿ドニエストル地方を獲得し(ヤシ条約。上の地図は1793年時点)、さらに1812年には現在のモルドバ共和国のほぼ全土を傘下に収めることに成功しました。(ブカレスト条約)。

 

この時、ロシア帝国がモルダヴィア公国(実質はオスマン帝国)から獲得した東部地域を「ベッサラビア」と呼んだのが、ベッサラビアという地方の名の始まりだそうです。

(わかりにくいですが従来のモルダヴィア>ベッサラビアの関係です。)

 

また、この時ロシアが沿ドニエストル地方を先行して獲得し、ロシア人がこの地域に多数入植したことが、後の沿ドニエストル問題の端緒になっています。

要するに、クリミア半島とウクライナの構図と全く同じです。

 

このロシア帝国の統治は、1812年からロシア革命が起こる1917年までの約100年間続き、その間にルーマニア人貴族のロシア化やロシア文化の流入(例:キリル文字の導入)が進みました。

 

2 モルダヴィア・ソヴィエト社会主義共和国の成立

そして、1914年に第一次世界大戦が起きると、ベッサラビアは連合国(ロシア・ルーマニア)と中央同盟国(オーストリア・ドイツ・ブルガリア・ハンガリー)の激戦地となります。

 

このルーマニア戦線は、ロシア革命の勃発(=ロシア帝国の崩壊)と、弱兵で知られるルーマニアの連戦連敗により1918年には中央同盟国の勝利で決着。

 

同年に、ロシア革命により空白地帯となったベッサラビアには、初の独立国家であるモルダヴィア民主共和国が成立しました。

 

(Andrei Nacu - English Wikipedia [1], パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=3174957による)

 

しかし、弱いくせに野心だけは人一倍のルーマニアは、中央同盟国が劣勢となるや1918年4月にベッサラビアに侵攻

 

1920年に列強諸国とパリ条約を締結し、ベッサラビア(上の地図のピンク色)を含む大ルーマニア(上の地図の色が付いた全地域)を版図に収めることに成功したのです。

 

 

このように、ウクライナ・ベラルーシと異なり、第一次世界大戦後もソ連の支配下には入らなかったベッサラビアですが、ソ連は旧ロシア帝国領であるこの地を諦めることはありませんでした。

 

ソ連は、ルーマニアに対し国内では共産主義勢力を浸透させ、外交的にはベッサラビアを割譲するよう圧力をかけ続け、最終的には第二次世界大戦中の1940年にベッサラビアを軍事占領

 

モルダヴィア・ソヴィエト社会主義共和国を建国し、人民の歓迎の下(嘘)でソ連の構成国に加えたのです。

(同年にバルト三国も併合し、15構成国体制が成立。)

 

ちなみにこの占領は、1939年に結ばれた独ソ不可侵条約の秘密議定書(上は条約締結の模様)に基づくもので、ナチス・ドイツは同じ枢軸国のルーマニアの領土がソ連に奪われるのを黙認したわけです。

 

また、同年中にはソ連中央部の意向により、モルドバ・ウクライナ間の領土の調整が行われ、現在のモルドバ共和国の領土が確定しました。

…つくづく、大国の傲慢さと小国の悲哀を感じますね(涙)。

 

 

(derivative work: Donk (talk)USSR_map.svg: Saul ip - USSR_map.svg, CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=4829380による)

 

さて、モルドバ(ベッサラビア)はこの後、独ソ戦の戦火とソ連当局による厳しい民族弾圧を経て、約50年間のソ連構成国(No.9)としての冬の時代を迎える訳ですが、記事の容量の都合上、今回はここまでとします。

 

次回は1941年から現在までのモルドバの歴史を紹介し、本旅行記の予習編を締め括る予定です。

ではでは。