こんばんは。
12月も今日で半分が終わり、2018年も残りわずかとなる中、ここ最近は恒例の「今年の〇〇」が次々と発表されています。
漢字の「災」、流行語大賞の「そだねー」は記憶に新しい話ですが、私にとって今年を象徴する言葉は間違いなく「島」(笑)。
…まあ、来年もこの時期に同じことを書く気がしますが、その辺はどうかご容赦くださいませ(汗)。
さて、本題のイタリア・サンマリノ旅行記予習編は、第1回はフィレンツェの概要を紹介しましたが、今回はフィレンツェの歴史を概観・解説したいと思います。
(左はフィレンツェの市旗・右はイタリアの国旗の図案)
ルネサンス期に最高潮を迎えたフィレンツェが、その前後にどのような歴史を歩んだのかを知る機会になれば幸いです。
【フィレンツェの歴史】
1 都市の形成~毛織物業と金融業の発展
トスカーナ地方の歴史は、B.C.10世紀頃に先住民族のエトルリア人が小さな集落を築いたことに始まり、都市としてのフィレンツェの成立はB.C.1世紀半ば、共和制ローマの時代でした。
当時、執政官(コンスル)として権勢を誇ったガイウス・ユリウス・カエサルは、退役軍人に対し土地を貸与し植民都市を造らせたのですが、フィレンツェもその植民都市の1つだったのです。
(余談ですが、彫像のとおりカエサルは薄毛でハゲに悩んでいたそうです。)
なお、前回少し触れましたが、この時代に街の名を花の女神フローラを冠したフロレンティア(Florentia)と定め、そのまま発音が変化し、現在のフィレンツェに至っています。
ただ、当時のフィレンツェはトゥスキア地方(現在のトスカーナ州全土、ウンブリア州の大部分及びラツィオ州北部)の辺境の一都市に過ぎず、古代ローマ~中世の中期まで長く歴史の表舞台に現れることはありませんでした。
(By No machine-readable author provided. MapMaster assumed (based on copyright claims). - No machine-readable source provided. Own work assumed (based on copyright claims)., CC BY-SA 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=1379182)
その後、9世紀半ばにトスカーナ辺境伯領として神聖ローマ帝国の支配下に置かれると、フィレンツェは陸運のほか、アルノ川の水運にも恵まれた交易拠点として次第に発展。
それに伴い、次第に中小貴族や商人からなる支配体制が確立され、11世紀半ばには辺境伯領の首都に、そして1115年には自治都市としての地位を獲得するに至りました。
(=フィレンツェ共和国の成立)
(国章:Connormah - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=8246569による)
フィレンツェ共和国は、有力な豪族・商人らによる寡頭制から始まり、13世紀末には商人中心の共和制が確立されます。
(左は共和国の国旗。右は今もフィレンツェの市章となっている国章)
この時期、フィレンツェでは輸入した羊毛と染色材料を用いて上質の織物を生産し、欧州諸国やエジプトに輸出する毛織物業が発展して後の躍進の基礎となりました。
その後、13世紀末~14世紀にはイタリア全土を席巻した教皇派(ゲルフ)と皇帝派(ギベリン)の内乱に巻き込まれつつも、今度は毛織物業で得た利益を欧州諸国の国王・諸侯らに貸し付けることで、さらに富を集め、金融業が大きく成長します。
(Classical Numismatic Group, Inc. http://www.cngcoins.com, CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=663418による)
金融業の成長は、共和国政府が発行するフローリン金貨(上の写真)の地位を中世ヨーロッパで最も権威ある通貨にまで高め、その結果、15世紀末までの200年以上にわたり、フィレンツェは金融の首府として君臨し続けたのです。
2 世界史を動かしたルネサンスの栄華
毛織物業と金融業の2つを柱に、14世紀初めに欧州有数の豊かな都市国家となった共和国が次に着手したのは、フィレンツェを宗教・芸術の両面で創造的な都市とすることでした。
13世紀末~15世紀初めにかけて、ドゥオモ(写真1枚目)やヴェッキオ宮殿(同2枚目)に代表される壮麗・豪華な建築群が次々と建てられ、ユネスコの世界遺産にも登録されている現在の街並みの大部分はこの時代に整備されたのです。
(Gabagool - 投稿者自身による作品, CC 表示 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=7215612による)
そんなフィレンツェの街が美しく整備される一方で、対外的には1406年に西のピサを征服して念願の海を獲得。海上貿易でも富を蓄え、その経済的繁栄はまさに絶頂を迎えます。
(上の地図の緑部分:ピサ征服時の共和国領)
そんなフィレンツェの繁栄の中、次第に頭角を現したのが銀行家のコジモ・デ・メディチです。
コジモは、父の築いた銀行業を受け継いでさらに発展させるとともに、1429年にはメディチ家の当主に就任して共和国政府の中心的な役割を担うようになります。
1433年の政変で一度はフィレンツェを追放されますが、翌年には復帰。今度は政治的に表に出ることを避けつつ、巧みに民衆を味方に付けて選挙を操作することにより、間接的に共和国を支配することに成功しました。
その後、コジモは対外的にはヴェネツィア・ミラノ・ナポリといった有力都市国家との勢力均衡を図り、教皇庁との結び付きを深める一方、国内では学問と芸術を厚く保護することで、一時の平和と学芸の発展を実現したのです。
こうして、メディチ家をフィレンツェの「真の支配者」にまで押し上げたコジモは、1464年に74歳で死去。
その跡を息子のピエロ・デイ・コジモ・ディ・メディチ(ピエロ)(肖像画の人物)が継ぎますが、生来病弱だった彼は父の死の5年後(1469年)に死去してしまいます。
この治世の短さから、影が薄いとされるピエロですが、1466年に北のフェラーラの侵略を退け、またサンドロ・ボッティチェリを見出し支援したなどの実績を上げた点は重要です。
そして、そのピエロの跡を継いだのが、メディチ家の最盛期を築き上げたロレンツォ・デ・メディチです。
(肖像画の人物)
弱冠20歳でフィレンツェの最高権力者となったロレンツォは、非凡な政治的手腕を発揮してメディチ家の地位をさらに高めますが、これは1478年の反対派によるクーデター未遂を招き、その際に実弟のジュリアーノを失いました。
(パッツィ家の陰謀事件)
クーデターを鎮圧したロレンツォは、首謀者のパッツィ家(フィレンツェの歴史ある商人でした。)らを処刑するとともに、この機に乗じて攻めてきたナポリとの間で命がけの和平を実現。
その後、ロレンツォが1492年に43歳の若さで死の床に就くまでの間、フィレンツェは平和な時代が続き、ロレンツォの庇護と支援の下で活躍した芸術家として、
父ピエロが庇護・支援し最盛期を迎えたボッティチェリ(上の作:「ヴィーナスの誕生」(1485年頃))、
そして若き日のレオナルド・ダ・ヴィンチ(1枚目の作:「東方三博士の礼拝」(1481年))やミケランジェロ(同2枚目:「階段の聖母」(1491年頃))など枚挙に暇がありません。
こうした世界有数の美しい街において、歴史上でも屈指の芸術家が活躍したフィレンツェは、まさにルネサンスの中心となり、この時期に黄金時代を迎えたのです。
3 黄昏の「花の都」 ~自由と独立を誇った共和国の終焉~
ロレンツォの死後、その跡を継いだ息子のピエロ2世は、対外政策に失敗し、要衝のピサを失ったため市民の不満が爆発。
その結果、市民の手によって1494年にピエロ2世をはじめとするメディチ家は追放され、代わって台頭したのが、当時サン・マルコ修道院長を務めたジローラモ・サヴォナローラでした。(上の肖像画の人物)
神の教えに従って清貧な暮らしを送ることを説いた彼は、市政を握ると美術品や工芸品などを贅沢として広場に集め、焼やしたのに加え(虚栄の焼却)、厳格かつ殺伐とした監視社会を構築。
その結果、フィレンツェ市民の不満が再度高まり、最後は1498年に逮捕・処刑されるに至ります。
…理想ばかりでは人が付いてこない好例ですね(汗)。
サヴォナローラの死後、16世紀初めのフィレンツェは「君主論」で知られるニコロ・マキァヴェリ(上の肖像画の人物)の下、短期間ながら辛うじて共和制を守りますが、
(参考:ミケランジェロの傑作「ダビデ像」は、当時のフィレンツェの自由と独立をテーマに制作されました。)
(フィレンツェ公国旗:myself - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=6821366による)
(トスカーナ大公国旗:Flanker, CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=3680940による)
1512年にはスペイン軍を後ろ盾にしたメディチ家が復権(翌年にマキァヴェリが追放されます)。そして1532年についに共和国は終焉を迎え、メディチ家を当主とするフィレンツェ公国が成立したのです。(左:フィレンツェ公国の国旗)
さらに、1569年には教皇から当時のフィレンツェ公コジモ1世(メディチ家の傍系)に大公位が与えられたことで、以後300年余りにわたり続くトスカーナ大公国となりました。
(右:トスカーナ大公国の国旗)
こうして世襲制国家と化したフィレンツェでは、二度とルネサンスの輝きを取り戻すことはなく、17世紀以降は数多あるイタリアの地方国家の1つに落ち着いたのでした。
4 イタリア統一、そして世界的な観光名所へ
メディチ家によるフィレンツェの支配は、第7代大公ジャン・ガストーネの死によるお家断絶(1737年)で終結し、その後は紆余曲折あったものの、ナポレオン時代を除いて1860年までオーストリア・ハプスブルク家の支配下に置かれました。
(上の旗:ハプスブルク家の下での大公国旗)
ちなみに、ナポレオン時代はナポレオンの妹エリザがトスカーナ大公となっていたそうです。
(Created by NormanEinstein - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=156678による)
加えて、ナポレオンが一度目に流されたのが大公国領のエルバ島ということで、ボナパルト家とは妙な縁があるものですね。
そんなトスカーナ大公国の終焉は、イタリア統一に向けた動き(リソルジメント)が本格化する最中の1860年、サルデーニャ王国への併合という形で迎えることになります。
その翌年(1861年)にリソルジメントが完遂され、サルデーニャ王国がイタリア王国となった4年後の1865年、フィレンツェはトリノに代わる新たな首都に定められます。
(肖像画:初代国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世)
ただ、1870年に普仏戦争に乗じて教皇領を占領、その翌年(1871年)にはローマに遷都。フィレンツェは6年余りで首都の地位を失ったのでした。
その後、20世紀に入るとイタリアは2度の世界大戦の舞台となりますが、フィレンツェは第二次世界大戦においてヴェッキオ橋以外の全ての橋が破壊された以外は大きな被害を免れ、中世以来の美しい街並みはそのままの姿を留めることができました。
そして、現在は世界各国からの観光客を受け入れる、イタリアでも有数の観光都市として繁栄しているのです。
以上、ここまでフィレンツェの歴史を概観しましたが、200年余りとはいえ、欧州の金融を握り、そして世界史上でも有数の芸術家たちがこの街に集まった時代があったというのは、本当に驚くべき出来事だと思います。
ぜひ、2週間後に控えた旅行中は、そんな深い歴史に思いを馳せつつ、数多くの素晴らしい遺産を鑑賞したいですね。
なお、次回はフィレンツェからも日帰りで行けるミニ国家・サンマリノ共和国の概要を紹介する予定です。
ではでは。