こんばんは。

この週末は穏やかで心地よい天気が続きましたが、今日はうちの会社が関係する業界の資格試験があり、その監督業務を朝から昼過ぎまでしていました。

 

過去に会社の採用試験の監督もしたこともありますが、試験監督中は本当にやることがなく、かといって本を読んだりスマホを操作するのは当然NGなので、受験者を注視しつつ純粋に時間が過ぎるのを待つのは結構苦痛だったりします。

 

まあ、受験する側より気楽なのは確かなので、それに文句を言うつもりはありませんけどね…(苦笑)。

 

さて、本題のオーストラリア旅行記予習編は今回で最終回、オーストラリアの現代史とシドニーの歴史について紹介します。

(上はオーストラリアの国章

 

日本から飛行機で10時間、思った以上に日本人が知らない南半球の大国の沿革をともに学んでいければ幸いです。

 

 

【オーストラリア連邦の歴史②】

 

<対米協調と「ミドル・パワー」>

 

第二次世界大戦後、冷戦下のオーストラリアは、外交・経済上のメインパートナーをイギリスからアメリカにシフトし、オセアニアにおける西側の拠点としての役割を果たします。

 

その基礎を築いたのが、1949年に首相に就任した自由党のR.メンジーズ(写真)であり、彼は対米連携による安全保障日米との貿易強化を軸に安定的な政権運営を進め、16年余りに及ぶ長期政権を実現しました。

 

メンジーズとその後継者による自由党中心の政権は1972年まで続き、この時期は反共・保守的な外交・内政とともに、オーストラリア・ドル(豪ドル)の導入(=英ポンドとの連動解消)(1966年)やOECD加盟が実現し、経済の独立と国際化が進んだ時期でもあったのです。

 

しかし、1970年代に入ると冷戦の緊張緩和の中、左派勢力が伸長する一方で、ベトナム戦争への派兵継続等を巡り政権内で混乱が起きたことで与党の信頼は失墜。

 

1972年の総選挙の結果、社会民主主義を掲げる労働党が政権を握り、G.ホイットラムが首相に就いたのです。

 

労働党政権は、中華人民共和国の国家承認や東ドイツ・ポーランドとの国交樹立など、東側諸国との関係改善を進める一方、対米同盟は維持しつつベトナム戦争から完全に撤兵するなど、太平洋における「ミドル・パワー」の位置を模索しました。

 

また、左派政権らしく国内では移民の受入推進や福祉・教育予算の充実、アボリジニの土地所有権の承認といった政策を実施しますが、案の上国家財政の悪化を招き、さらに石油危機の影響も受けて大不況に陥ります。

 

ちなみに、シドニーのシンボルの1つのオペラハウス労働党時代の1973年に完成しましたが、これはたまたま工事が遅れただけだそうです。(注:何と13年もかかりました…。)

 

 

その後、1975年の総選挙で自由党が政権に返り咲き、以後現在に至るまで、オーストラリアでは自由党・労働党の2大政党が交互に政権を担う、二大政党制が定着し続けています。

 

なお、この1975年には連邦高等裁判所の英国枢密院への上訴権を放棄し、さらにその後の1986年のオーストラリア法成立により、ようやく英国からの司法上の完全な独立に至ったというのは、あまり知られていない事実です。

 

冷戦終結までの間、1975~1983年は自由党・1983年以降は労働党が政権を担いましたが、この時期は第三世界の一角を担う戦略の下、ASEANとの協調やAPECの結成を主導(1989年。上の地図の緑は現構成国)しました。

 

 

<「移民の国」の現在>

 

 

冷戦終結後は、1995年までと2007年~2013年は労働党政権1996~2007年と2013年9月以降は自由党政権と、政権交代が一定頻度で起きつつ、対外・対内的の両面で比較的安定した国家運営を実現しています。

 

この点は野党がヘボ過ぎて、自公連立政権しか選択肢が事実上存在しない日本の状況を思うと羨ましい限りです。

 

また、オーストラリアを形作ってきた移民は、近年は大部分がアジア・アフリカ・オセアニア地域からやって来るようになり、「白豪主義」と呼ばれた時代はすでに終焉を告げ、多文化共生社会の代表格というべき国となりました。

 

もちろん、こうした社会の変容は、時に衝突や混乱を招くことも少なくないですが、周辺国に脅威がない長所を活かし、引き続き平和で安定的な国であってほしいです。

 

 

【シドニーの歴史(補足)】

 

 

最後に、シドニーの歴史について少し触れると、イギリス人の入植以来、19世紀半ばまでは植民地の中心として群を抜いた発展を続けましたが、ゴールドラッシュを機に、メルボルンが急激な成長を遂げたことでその状況は大きく変貌します。

 

本国イギリスとの航路において、メルボルンがシドニーより便利だったことも重なり、19世紀後半にはついにシドニーはメルボルンに追い抜かれ、第2の都市に転落しました。

 

ちなみにこの頃から、シドニーとメルボルン(ニューサウスウェールズ州とヴィクトリア州)のライバル意識は顕在化し、現在もこの風潮は残っているそうです。

 

その後、ゴールドラッシュが終焉を迎え、20世紀初期には再びシドニーが盛り返して最大の都市の座を奪還しますが、一方で1901年にオーストラリア連邦が成立すると、その臨時首都はメルボルンに置かれたのです。

 

そのことにシドニーは猛反発、約25年にもわたり両都市の間で首都を巡る争いが公然と繰り広げられました。

 

 

(​English Wikipedia user SonNy_cZ, CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=4631760による)

 

その不毛…失礼、激しい議論においてどちらも首都の地位を譲らなかった結果、1927年にようやく妥協の産物として、両都市の間にあるキャンベラに首都を置くことになったのです。

 

 

(CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=984891)

 

ちなみにこのキャンベラ、元々は何もない片田舎だったそうで、そこに政府・議会などの首都機能を移した結果、写真のようなわかりやすい計画都市となった訳です(苦笑)。

 

 

その後、1950年代の移民の大量流入、そして1970-80年代の国際金融機能の発展などを通じ、シドニーは現在に至るまでオーストラリア最大の都市の地位を保ち続けています。

 

ただ、メルボルンにはオリンピック開催で先を越されるメルボルンは1956年なのに対し、シドニーは2000年)など、決して全ての面で優位にはない点がまた面白いところです。

 

これが、「東京と大阪」になると、もう何も大阪の方が優れている点がないから、単なる大阪の僻みになる訳ですし(苦笑)。

 

 

 

以上、ここまで2回にわたりオーストラリアの歴史を概観してきましたが、あまりに他の大陸や国と物理的に隔絶しているため、歴史に盛り上がりがなく、正直書いていて苦労しました(汗)。

(写真:シドニー郊外のブルーマウンテン

 

まあ、実際に旅行に行けばまた現地で面白い体験や、歴史の名残・絶景等を味わえると思うので、それを楽しみにして、この予習編を締め括りたいと思います。

ではでは。