こんばんは。

今日で8月は終わりですが、全国的に猛暑は続き、加えて来週は台風21号が到来予定とまだまだ厳しい気候が続きそうです。

 

台風のおかげで、来週に予定されていた本社幹部の視察が中止になりそうなのは嬉しいものの、暴風と豪雨で外出がままならないのは痛し痒しだなあと思います(汗)。

 

 

さて、出発まですでに3週間を切った本題のコーカサス三国旅行の予習編ですが、今回はアルメニアの近現代史及びジョージアの歴史を概観します。

 

勉強しているとつい暗くなってしまうのは列強に挟まれた小国の歴史の悲しさですが、日本の某隣国のように歴史を粉飾しても空しいだけなので、しっかり直視していきましょう(切実)。

 

 

【アルメニア共和国の歴史(近現代)】

 

<近代 ~今も残るトルコへの怨念とソ連の圧政~ >

 

19世紀後半、アルメニアでも民族主義が高まり、特に1890年に結成されたアルメニア革命連盟(上は連盟の創始者たち)がオスマン帝国領内で勢力を伸ばしました

 

こうした流れは、国当局及びムスリム勢力の警戒を招き、その結果19世紀末~20世紀初めと第一次世界大戦中2度にわたり、いわゆるアルメニア人虐殺が起きたとされます。

トルコ・アルメニア間で今も事実認識で対立中のため「いわゆる」と表記。)

 

(Yerevanci - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=27929331による)

 

一方、東アルメニアでは、第一次世界大戦の最中にロシア帝国が崩壊するとアルメニア人による国家建設が進められます。

 

そして1918年にはアルメニア第一共和国が成立、中世以来のアルメニア人の独立国家が誕生したのです。

橙色:実際の統治地域黄色:係争地域

 

ちなみに、第一共和国の国旗は現在のアルメニアと同じで、赤はアルメニア人の血、青は国土の自然、黄は国民の労働による勇気を現しているそうです。

 

アルメニア第一共和国は、1920年のセーブル条約(第一次世界大戦の戦勝国とオスマン帝国の講和条約)により東アナトリア4州(上の地図のクリーム色)を与えられましたが、これはトルコ人の猛反発と民族意識の高揚を招き、

 

ムスタファ・ケマル(後のケマル・アタテュルク)率いる新生トルコ軍の前にアルメニア軍は完敗、瞬く間に東アナトリア4州を失ったのでした。(トルコ=アルメニア戦争

 

この戦争中にも、多くのアルメニア人の避難民(写真)、さらに犠牲者を出したことで、上述の2度の大虐殺とされる事件と併せたアルメニアのトルコへの怨念は、今も根深く残っています。

 

さらに、トルコ=アルメニア戦争と時を同じくして、東からソ連軍が侵攻して残るアルメニアの国土を占領建国からわずか2年でアルメニア第一共和国は滅亡しました。

 

 

(右の地図:www.armenica.org - www.armenica.org, GFDL, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=8250595による)

 

その後、アルメニアは約70年にわたりソ連の構成国となり(アルメニア・ソビエト社会主義共和国)、共産党独裁の下で初期は民族文化の復興や経済の発展などが実現します。

 

しかし、1920年代末にスターリンがソ連の権力を握ると状況は急変、民族主義の抑圧など暗黒の時代を迎え、特に1930年代後半の大粛清では数万人のアルメニア人が犠牲となりました。

 

続く第二次世界大戦では、幸運にもアルメニア本土は戦火に巻き込まれなかったものの、1941年から始まった独ソ戦(大祖国戦争)において数10万人のアルメニア人が動員され、うち約17.5万人が戦死したのです。

 

1939年のアルメニアの人口が130万人ほどなので、全体の約15%、しかも成人男性が亡くなったと考えると、相当な犠牲と理解いただけると思います。

 

(Stratocles - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=5575698による)

 

第二次世界大戦後、冷戦期のアルメニアは、ソ連の中でも観光業・重工業への投資が重点的に行われるとともに、スターリン批判以降はアルメニア文化やアルメニア語が復権を果たします。

 

特に工業面では増加する電力需要を賄うため、1970年代にメツァモール原子力発電所(写真)を整備するなど、1980年代まではコーカサス三国の中でも最大の生産額を誇っていました。

 

しかし、1980年代に入りソ連経済は停滞、慢性的に中央・地方ともに政府・党の腐敗が続くと、アルメニアでも独立とナゴルノ・カラバフ自治州の統合を目指す動きが活発化します。

 

(CC 表示-継承 1.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=558306)

 

これに対し、ソ連政府及び共産党は全く応える姿勢を示さず、さらに1988年に起きたアルメニア大地震(写真は被災地の教会)の際にも有効な支援策を打たなかったことでアルメニア人民の不満はさらに高まり

 

(Serouj - 投稿者自身による作品, CC 表示 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=3615499による)

 

1990年のアルメニア最高会議選挙・同議長選挙でシリア出身のアルメニア人運動家・学者のレヴォン・テル=ペトロシャン(写真)が共産党の候補を破って議長に就任。さらに1991年9月21日、アルメニアはソ連からの独立を宣言したのです。

アルメニア共和国の成立)

 

<現代 ~隣国との衝突と不安定な国情~>

 

独立後のアルメニアは、初代大統領となったテル=ペトロシャンの下でソ連解体による経済支援と市場の喪失過激派民族主義者の暗躍、そして隣国アゼルバイジャンとのナゴルノ・カラバフ自治州を巡る衝突などの多くの課題に直面します。

 

特にナゴルノ・カラバフ自治州(上の地図の橙部分)を巡っては、ソ連時代からアゼルバイジャンとその領有を巡りデモや殺人事件、さらには散発的な武力衝突まで起きていました。

 

それに加えて、1992年1月に自治州が「ナゴルノ・カラバフ共和国」として一方的にアゼルバイジャンからの独立を宣言すると、ついに両国間の本格的な武力衝突に発展したのです。

ナゴルノ・カラバフ戦争

 

この戦争は、アルメニア人が多く住むナゴルノ・カラバフの獲得に強い意欲を持つアルメニア側の優勢で進み、ロシアなど周辺諸国の調停により約2年後の1994年5月に停戦

 

以降、アルメニアがナゴルノ・カラバフの大部分(上の地図のペールピンク部分)を実効支配し続けています。

 

ナゴルノ・カラバフ戦争では勝利を収めたアルメニアですが、その代償としてトルコ・アゼルバイジャンからの経済制裁とパイプライン開発からのアルメニア外しを受け困窮を深めます。

 

さらに、建国以来の国内の政治対立は、1999年のアルメニア議会銃撃事件(上は首相や議長ら同事件の8名の犠牲者を悼んだ葉書)や、多発するデモなどで死傷者が相次ぐに至り、それにより不況・社会不安が高まる悪循環が今も続いているのです。

 

 

【ジョージアの歴史(古代~近世)】

 

<先史・古代 ~コルキス・ラジカ・イベリアの三王国の隆盛~>

 

 

続いて、ジョージアの歴史を先史から紹介すると、この国における人類の歴史はアルメニア以上に古く180万~160万年前頃の原人の化石人骨まで遡ります。(ホモ・ゲオルギクス

 

旧石器時代・新石器時代とジョージア各地で遺跡や石器が発見されるなど、先史時代のジョージアは先進地域、特に金属精錬に関しては発祥地の1つと考えられています。

 

とりわけ、B.C.3700年~2000年頃の青銅器時代の遺跡では大量の金属器が出土し、B.C.2000年頃には内陸部においてすでに部族社会が確立していたそうです。

 

(Deu, basiert auf Andrew Anderson's File:Earlycaucasus655.jpg und Don-Kun's File:Caucasus 300 map alt de.png - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=18306371による)

 

その後、B.C.6世紀ジョージア最古の国家として西ジョージア・黒海沿岸にコルキス王国が成立(上の地図の緑色)。

 

コルキス王国は、地中海とペルシャ地方を結ぶ交易拠点として約400年にわたり繁栄し、その模様はギリシャ神話のコルキス王女メディアと金羊毛皮の物語の中に残っています。

 

メディアというと、サブカル好きな方にとってはアニメ・映画化もされた人気ゲーム「Fate/Stay Night」のサーヴァントの1人、キャスターの正体(真名)が連想されるかもしれません。

(ネタがわからない方はご容赦ください。)

 

一方、内陸部の東ジョージアには、B.C.6世紀からB.C.4世紀末にかけてアルメニアと同じくアケメネス朝ペルシア、次いでセレウコス朝が進出しますが、B.C.301年頃にジョージアの土着の民族によってイベリア王国が建国されます。

(上の地図の黄色・橙色

 

なお、これらの王国を主導した土着のクルハ族とディアウヒ族が、今のジョージア人の起源とされているそうです。

 

その後、B.C.2世紀にコルキス王国は黒海南岸のポントス王国によって滅ぼされ、次いでB.C.1世紀半ばには共和制ローマの支配を受けるに至ります。

 

同時期にイベリア王国もローマの影響下に入りますが、1世紀以降ジョージア全土でキリスト教の布教が急速に広がり、特にこのイベリア王国が330年代にキリスト教を国教とし、世界で2番目に古いキリスト教国家となった点は重要です。

 

なお、このイベリア王国においては今もジョージアで用いられるジョージア文字が4~5世紀にかけて考案されました。

 

(By Cplakidas - Own work, CC BY-SA 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=19884298)

 

また、西ジョージアでは4世紀半ばにローマ帝国が衰退すると、旧コルキス王国の一部に土着勢力によるラジカ王国が起こり、イベリア王国と同様にキリスト教を積極的に受容します。

 

このように、東西ジョージアの両方で早期にキリスト教が受容・浸透したことが、キリスト教国家としての今のジョージアの起源になったのです。

 

なお、前回触れたアルメニア教会は6世紀以降、独自の信仰の道を歩みますが、ジョージア教会は正教会の主流の信仰に従った点が大きく異なります。

 

(Neuceuと推定(著作権の主張に基づく) - 投稿者自身による作品と推定(同左), CC 表示-継承 2.5, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=386623による)

 

また、6世紀にはユスティニアヌス1世(大帝)の下、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)が中興を迎え(上の地図の赤が即位時・オレンジが最大版図)、ジョージアにも再進出。

ラジカ王国は562年にビザンツ帝国に併合されます。

 

また、東のイベリア王国も同時期、580年頃にササン朝ペルシアによって滅ぼされ、ジョージアは東西に分裂して中世の幕開けを迎えたのです。

 

<中世(1) ~ジョージア人国家の再興~>

 

中世のジョージアは、先に紹介したアルメニアと同様に東西の大国の勢力争いの舞台となり、7世紀後半にはアラブ・イスラム系のウマイヤ朝が東ジョージアに進出します。

 

その後、9世紀末に再興したアルメニア王国(バグラトゥニ朝)の一時的な進出はあったものの、ビザンツ帝国(キリスト教勢力)とアッバース朝(イスラム勢力)がにらみ合う構図は続き、

 

 

(国旗:By Ec.Domnowall - crwflags.com, CC BY 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=21775059)

(国章:By Samhanin - Own work, source: Grünenberg, Konrad: Das Wappenbuch Conrads von Grünenberg, Ritters und Bürgers zu Constanz - BSB Cgm 145 (um 1480), CC BY 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=76008324)

 

その状況が変わったのは10世紀後半、アッバース朝の衰退に乗じて力をつけたジョージアの土着勢力出身バグラト3世によるバグラト朝グルジア王国の建国でした。

 

6世紀後半以来、約400年ぶりに成立したジョージア人国家であるグルジア王国は、11世紀初めには現在のジョージア全土を統一し、以後数度の外敵の侵入を受けつつも13世紀までの間、繁栄の時代を迎えます。

 

ちなみに、このグルジア王国の国旗(上掲)は、現在のジョージアの国旗の起源とされ、白地に5つの十字架(聖ゲオルギウスの十字と四隅のエルサレム十字)の図案は、キリスト教国家とジョージアの民族主義を象徴するものだそうです。

 

 

さて、中途半端なところで恐縮ですが、記事の容量の都合上今回はここまでとします。

次回はジョージアの中世以降の歴史を中心に掲載し、可能であれば最後のアゼルバイジャンの歴史に触れる予定です。

ではでは。