こんばんは。
この週末は9月の初め以来、遠出しなかったのが約1カ月ぶりということで、自宅の掃除や溜まっていたDVDの鑑賞、散髪など身の回りの用事を中心に過ごしましたが、おかげで先週半ばあたりからの疲れもしっかり取れ、今はとても快適です。
ただ、来週末の福岡・佐賀旅行に向け、「福岡」「佐賀」両方のるるぶをベッドで眺めたりもしていたので、我ながら結局結局せわしないなあと思う今日この頃です(苦笑)。
さて、本題のバルカン半島旅行記は前回からマケドニアに入りましたが、今回はまずマケドニアの歴史について簡単に触れた後、スコピエ観光の続きから再開します。
冒頭で「マケドニア」という概念と「マケドニア旧ユーゴスラビア共和国」の違いを感じていただいた上で、ゆっくり本編をお読みいただけると幸いです。
マケドニア旧ユーゴスラビア共和国の歴史
(NikoSilver - English wikipedia (w:en:File:Europe_Balkans_Macedonia_geo.jpg), CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=1032439による)
まず、現在のマケドニア旧ユーゴスラビア共和国(以下、「共和国」と略)の名は、古代の英雄アレクサンドロス3世(大王)を輩出したマケドニア王国の故地「マケドニア」に由来しています。
ただ、この「マケドニア」という概念は、上の地図の赤・橙・緑・白で塗られた広域的なもので、現代でいうと共和国以外にアルバニア、ブルガリア、ギリシャの一部を含んでいます。
そんなマケドニアは、古代にはマケドニア王国の発祥の地として繁栄を迎えた後、A.D.146年にローマ帝国の進出を受けて属州となり、4世紀の帝国の東西分裂にあっては東ローマ帝国(ビザンツ帝国)領となりました。
帝国分裂後の混乱の中では異民族の進出が著しく、7世紀初頭には今のマケドニア人の源流となるスラブ人が定着、9世紀には第一次ブルガリア帝国の支配下に入ります。
これに対し、11世紀初期にビザンツ帝国が第一次ブルガリア帝国を滅ぼしますが、両帝国が相争う中の10世紀後半には第一次ブルガリア帝国のサミュエル帝が現在のマケドニアのオフリド(写真)に都を移したとの記録が残っています。
その後、ビザンツ帝国の中心から遠方にあるこの地には、帝国の眼が必ずしも届かない、地方領主による群雄割拠の時代が訪れ、その後周辺諸国が次々と侵入した結果、12世紀末頃には第二次ブルガリア帝国・セルビア王国らによる勢力争いが繰り広げられます。
14世紀後半にはマケドニアはオスマン帝国の侵略を受け、以後19世紀まで同帝国の支配下に置かれますが、その間もイスラム化が進んだコソボと異なり、引き続き正教会とそれを信仰するスラブ人が地域の中核を占めていました。
そして1913年、2度のバルカン戦争の結果マケドニアとコソボがオスマン帝国からセルビア王国に割譲され(上の地図中央の緑色の部分)、約540年ぶりにスラブ人国家がマケドニアの地を統治することになります。
(Arbalete - 投稿者自身による作品, based on File:Yugoslavia (1946-1990) location map.svg, CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=26531929)
さらに、第一次世界大戦後はユーゴスラビア王国領、第二次世界大戦後はユーゴスラビア社会主義連邦共和国を構成する共和国の1つとなりますが、いずれもその辺境又は開発後進地域という位置付けでした。
(上の地図の赤い部分。現在のマケドニア領と同じ。)
ユーゴスラビア連邦の下では、1980年に建国の父ティトーが死去するまで、他の連邦構成国と同じく独立の動きは抑えられますが、それ以降はマケドニアでも独立に向けた機運が高まっていきます。
そして、1991年9月には同年6月に独立を宣言したクロアチア・スロベニアに続き、マケドニア共和国として独立を宣言します。
その際、ユーゴスラビア連邦及び連邦政府を支配するセルビアとは一触即発の緊張状態に陥りますが、マケドニア国内に配備された連邦軍の兵器を全てセルビア側が持ち去るという条件を受け入れることで、1992年3月には連邦軍が撤退し、無血による独立を実現しました。
これは、当時のマケドニア大統領キロ・グリゴロフ(写真)による、国家を事実上無防備にするハイリスクな判断でしたが、結果的に他の構成国のような泥沼の内戦への突入を避けることができたことから、現在は英断と称えられています。
独立後は、国の概要でも触れましたがギリシャとの国旗・国名問題を巡る対立や、コソボ紛争に伴うアルバニア人難民の流入、国内アルバニア人の民族的権利の拡大を求める動きの激化などの問題が相次ぎました。
そして現在は、国内の民族問題も比較的落ち着いており、豊かではないものの平和な時代をようやく迎えているのです。
7月27日(木曜日) スコピエ②
さて、スコピエ散策の続きは街の中心の広場からで、周りはクラシカルな様式から現代風のガラス張り(写真2枚目)の外観のものまで、とにかく「デカい」建物が目白押しです。
そして、ヴァルダル川に架かる橋(カメン・モスト。写真1枚目左)を渡ると、その川岸にも歴史上の人物を模した石像がたくさん並んでおり、中でも東ローマ帝国を再興したユスティニアヌス帝の像(同2枚目右・3枚目)は、このスコピエ近郊で生まれたことから一応、御当地の英雄といえます(笑)。
また、橋の先のマケドニア広場には、
前回の最後に紹介した征服王アレクサンドロス3世(大王)の巨大な像が、他の像とは格の違いを感じさせる噴水付きの立派な台座の上に佇んでいました。
国名でいろいろ周辺国と諍いを抱えてはいますが、古代マケドニアといえばアレクサンドロス大王、というほど遥か遠く、極東の島国に住む我々ですら思うくらいですので、地元の方にとっては本当に思い入れが深いのでしょうね。
マケドニア広場は、大王の像を中心に周りの建物はクラシック風に改築されており、街灯(写真2枚目)もシックな雰囲気に統一されていますが、歴史的経緯のない凱旋門(写真3枚目)を筆頭に、やはりどこか造り物感が強く、歴史の重みを感じることができません。
…というか、少なくともせっかくの巨大パネルにエラー画面を堂々と映し出す(同4枚目)のは止めようよ(汗)。
そんな中で唯一印象深かったのが、広場の一角に建つマケドニア出身の聖女マザー・テレサの生家跡を示す記念碑(写真1枚目)で、多くの観光客が立ち寄っては、じっと佇む姿を何度も見かけました。
ちなみに、街の通り沿いに何箇所もマザー・テレサの箴言を記したプレートが掲げられており(同2枚目)、彼女もスコピエ市民に今も大変人気であることを強く感じました。
この後、市内で最も賑わうマケドニア通りに入ると、この2週間後に開催された「UEFAスーパーカップ2017」レアルマドリード対マンチェスターユナイテッド戦の垂れ幕(写真上)が目立ち、この試合の注目度の高さを実感します。
また、この通りにはとりわけ多くの像が目立ち、オフリドに都を移した第一次ブルガリア帝国のサミュエル帝(上述。写真1枚目)はともかく、牛や女性、老人など何を現わしているのかわからない像は、正直何のために造ったか疑問です(汗)。
あと、通り沿いの建物は現在、共産主義時代の産物らしい無機質な外観(写真1枚目)から、順次クラシック調(同2枚目)にリノベーション中で、上の2枚の建物が連なった同じ建物なのが面白かったです。
こちらはリノベーションが終わった建物(写真1・2枚目)と昔のままの建物(同3枚目)の全景を比べたものですが、前者は豪華というより、どこか「無理をしている」ように感じるのは私の思い込みなんでしょうかね…。
そんなマケドニア通りには、スコピエの代表的な観光スポットが2箇所あり、1つが聖女マザー・テレサを称えて2009年にオープンしたマザー・テレサ記念館(写真)で、
内部は20世紀のマケドニアの民家を再現し、彼女の生涯や家族の写真(写真3枚目)、
身の回りの品(写真1枚目)からノーベル賞関係のもの(同3枚目)まで、幅広く彼女に関する品々が展示されています。
その他、3階のチャペル(写真1枚目)、割と広めの庭(同2枚目)などで、ゆっくり時間を過ごすのにもちょうどよく、入場料も無料なので、比較的立ち寄りやすいのも魅力ですね。
記念館を出た後は、途中で財政問題から建設が中断された金ピカ教会(写真)を「また無駄にお金を使っているなあ」と思いつつ、通りをまっすぐ進むと、
正面に今はスコピエを紹介する博物館となっている、旧スコピエ駅が見えてきます。
この旧鉄道駅は、写真のとおり向かって左側(東側)が全壊していますが、これは1963年のスコピエ大地震によるもので、1,100人を超える死者を出したマケドニアの歴史上に残る大惨事の爪痕を今に残す、数少ない遺構です。
ちなみに、今のスコピエ中央駅は震災後の復興計画に基づいて整備された新市街にあるそうで、この一角は人の往来も少なく、どこか寂しげな雰囲気となっていました。
この後は、一度ホテルに戻り、夕食を済ませた後再び外出して夜の街並みをじっくり鑑賞しましたが、記事の容量の都合上、今回はここまでとさせていただきます。
以上、歴史パートが長かったこともあり、あまり旅行記自体が進まなかった久しぶりのこのテーマですが、次回はガッツリ進め(笑)、アルバニア入国を目指したいと思います。
ではでは。