こんばんは。

先日、プロ野球・読売ジャイアンツの阿部慎之助選手が史上49人目の通算2,000本安打を達成しましたが、個人的には「自分が大学生だった頃に入団した選手が、もう2,000本安打…。」と時の流れの速さを実感せずにはいられません。

 

そんなことを言っていたら、自分と同年代の阪神タイガースの鳥谷敬選手が2,000本安打まで残り24本(本日時点)と年内にも達成できる見通しで、年代以外全く共通点はありませんが、まだまだ頑張ろうと思わせてくれる今日この頃です。

 

 

さて、今回から先日のバルカン半島周遊旅行の旅行記を開始したいと思います。

 

7泊10日という久しぶりの長丁場の旅なのに加え、途中に他の国内・海外旅行を挟む関係上、年内を目途に完結させられればと思っていますので、いつもどおり(苦笑)長い目で見てお付き合いいただけるとありがたいです。

 

 

7月25日(火曜日)・26日(水曜日)

出国・イスタンブール①・プリシュティナ①

 

今回の旅行は、GWのアイルランド旅行に続き成田空港からのターキッシュエアラインズの夜便を利用したため、日中は夕方前にお風呂に入ったのを除いて普段どおり過ごし、午後5時半過ぎに自宅を出発します。

 

 

成田空港には午後7時前に到着し、早速カウンターに並びますが、思った以上の受付待ちの行列(写真)で、この日乗ったイスタンブール行きの便はほぼ満席だったようです。

 

 

チェックイン手続を済ませた後は、早々に手荷物検査・出国審査に向かいましたが、あのカウンターの混雑ぶりはどこへやら、どちらもガラガラでスムーズに通過

 

適当に時間を潰して定刻どおり機内に搭乗しました。

乗継地のイスタンブールまでは約12時間

 

 

最初の機内食(魚料理をチョイス。)は、日本発の便なのに御飯がなく個人的にイマイチでしたが、食べるのは適量に抑え、時間が時間なのでそのまま就寝

 

起床してからは、いつもどおりモニターをポチポチ操作し、昨年9月に上映された広瀬すずさん・山﨑賢人さん主演「四月は君の嘘」を鑑賞しました。

 

広瀬すずさんの可愛さに癒されつつ、原作どおりの切ないエンディングに感傷的な気分になったところで、

 

 

朝の機内食の時間になったので和食をチョイス。特筆すべき美味しさ、という訳ではありませんが(苦笑)、これから10日間和食とお別れということもあり、じっくり味わいました♪

 

 

 

こうして長い空の旅をいつもどおり満喫した後、現地時間午前4時過ぎイスタンブール・アタテュルク国際空港に到着。

 

 

そんな時間にもかかわらず、空港は多くの利用客で賑わっており、3時間程度の乗継時間はフードコートでドゥンドゥルマ(トルコアイス)を食べたり(写真)、

 

勝手知ったる空港内を散歩し、キティちゃんの公式タイアップ商品(写真)を見て癒されたりして過ごしました。

 

ちなみに、いつもならプライオリティ・パスでラウンジを利用するところですが、今回は自宅にパスを忘れる失態を犯したんですよね…。Wi-Fiとかは空港のを利用すればいいんですが、ゆったり休めないのは少々きつかったです(汗)。

 

 

そして、いい時間になったので搭乗口に向かうと、相変わらず混雑する中(写真1枚目)、バス経由でコソボ・プリシュティナ行きの便に乗り込みます。

 

今度は2時間弱の短いフライトとなりますが、こちらもほぼ寝て過ごし、体力を温存しました。

 

ちなみに機内食は、写真のホットサンドとドリンクが提供されましたが、中身は野菜だけで、正直イマイチ…(苦笑)。

 

 

こうして成田を出発してから乗継時間を含め17時間程度を経て、ようやくコソボの空の玄関口である、プリシュティナ国際空港に到着します。

 

年に1度のコソボから出稼ぎに出ている人たちの帰省シーズンと被ったこともあり、空港内はなかなかの混雑ぶりで(写真2枚目)入国審査にちょっと時間がかかったものの、

 

 

無事にスーツケースを受け取り、事前情報と異なり曇り模様で少々肌寒い中、空港を出てバス乗り場に移動します。

 

…この到着時の肌寒さを今振り返ると、翌日以降の猛暑が本当に嘘みたいです(汗)。

 

 

コソボ共和国の歴史

 

ここからコソボ観光に入っていくところですが、その前にコソボの歴史のポイントを簡単に紹介します。すでに予習編で取り上げたバルカン半島全体の歴史と併せ、この後の本編の参考にしてください♪

 

コソボの歴史は、バルカン半島全体の歴史ですでに触れましたが、アルバニア人の祖先とされるイリュリア人ら古代人の造った諸王国に始まり、その後はローマ帝国の進出により属州となった後、帝国の東西分裂に際しては東ローマ帝国(ビザンツ帝国)に属しました。

 

その後、ゴート族やフン族の侵入を経てビザンツ帝国、第一次・第二次ブルガリア帝国の間で目まぐるしくコソボの統治者は変わっていきますが、そんな中で次第に土着のセルビア人諸侯が割拠し、12世紀後半には現在のセルビア南部・コソボを中心にセルビア王国が成立します。

(上の地図は1265年時点のバルカン半島の勢力図

 

こうした背景から、コソボはセルビア建国の地であり、また中世には今回訪れた3つの修道院を含む多くの教会・修道院が建てられ、セルビア正教会の聖地として位置付けられたという点は、セルビア人にとってのコソボの歴史的・宗教的重要性を語る上で欠かせない事実です。

 

その後、東方のオスマン帝国がバルカン半島に勢力を伸ばし、1389年コソボの戦い(上の絵)でオスマン帝国がセルビア王国に決定的な勝利を収めると、以後1817年のセルビア公国の成立(完全独立は1878年)まで、コソボはオスマン帝国の支配を受けることになります。

 

オスマン帝国の支配下のコソボでは、17世紀後半~18世紀前半にかけてイスラム教を信仰するアルバニア人の入植が進むとともに、多くのモスクが建てられるなどイスラム化が顕著となっていきました。

 

このアルバニア人の入植が、後のコソボ紛争の火種となる訳ですが、その前の19世紀には現在のコソボ・マケドニア・アルバニアなどに住むアルバニア人の民族意識の高まりから、セルビア王国などスラブ人勢力による併合から守り、オスマン帝国からの自治権の獲得を目指す運動が活発化します。

 

コソボでは、1878年のプリズレン連盟の結成に始まる自治権獲得運動が展開されますが、1912年まではオスマン帝国、1913年以降はセルビア王国・ユーゴスラビア王国(二度の世界大戦中を除く。)の支配を受けることになります。

 

 

(Arbalete - 投稿者自身による作品, based on File:Yugoslavia (1946-1990) location map.svg, CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=26533022による)

 

そして、第二次世界大戦後の1946年にはユーゴスラビア社会主義共和国連邦の構成国であるセルビア共和国の自治州(コソボ・メトヒヤ自治州。1964~1974年はコソボ自治州)となり、ようやくコソボは自治権を獲得します。

 

しかし、1950年代以降にアルバニア人を中心コソボの自治権拡大・独立を求める運動が活発化したため、連邦政府は民族運動を抑圧しつつ、1974年には自治権を連邦を構成する他の共和国並みに拡大するなど、一定の妥協を図りました。

 

しかし、この妥協はアルバニア人にとっては十分なものでなく、コソボをセルビアの一部と考えるセルビア人にとっては不満を高めることになり、両者は1980年のティトー大統領の死後、決定的な対立に至ってしまいます。

 

 

1981年以降、アルバニア人のコソボ独立運動は激化し、連邦政府による弾圧の中で「コソボ解放軍」(左上が紋章)と呼ばれる非合法組織が結成され、セルビア人らに対する実力行使を開始しました。

 

一方、セルビアでは過激な民族主義者であったスロボダン・ミロシェビッチ(写真)が台頭し、コソボ自治州の自治権を大幅に減らすなどセルビア人とアルバニア人の対立を激化させていきます。

 

その後、1990年代に入りユーゴスラビア紛争が本格化し、連邦構成国が次々と独立していくと、コソボ解放軍はセルビア人やその他の少数民族に対する暴行・殺害などの犯罪行為を繰り返すようになりました。

 

それに対し、コソボを自治州に留めつつ、紛争で難民となったセルビア人を入植させようとする連邦政府は1998年に連邦軍を派遣してコソボ解放軍に対する攻撃を開始、いわゆるコソボ紛争が始まります。

 

 

セルビアとコソボ解放軍の衝突は、コソボから周辺諸国に数十万人のアルバニア人難民を生んだことから、1999年3月にはNATOが両者の仲介を取るものの決裂ミロシェビッチ政権を嫌うアメリカやEU主要国の主導の下、NATOがセルビア全域の軍事施設やインフラ施設に対して空爆を行いました。

(写真はセルビアの地方都市の空爆後の様子

 

NATOの空爆の結果、国土全域に大きな被害を受けたセルビアは、同年6月にコソボから治安部隊を撤退させますが、今度はコソボに住んでいたセルビア系住民が報復を恐れてセルビアに避難し、約30万人が難民化してしまいます。

 

 

その後、コソボは国際連合コソボ暫定統治ミッション(UNMIK)とNATO主体の治安維持部隊(KFOR)の下で暫定統治が行われ、その間にセルビアとコソボ間の地位交渉を進めますが、当然両者の主張は平行線をたどり難航。

(上はUNMIKの暫定統治下のコソボの国旗とKFORの旗

 

一方、コソボ領内では、セルビア人をはじめとする非アルバニア人に対する迫害や、セルビア正教会の教会・修道院の破壊が行われていました。

 

そして、2008年にはコソボがアメリカや英仏らEU主要国の支持の下で独立を宣言、セルビアはこれに反発するものの、2016年12月現在では日本を含む109カ国から国家承認を受けるに至っています。

 

セルビアは、今なおコソボの独立を認めていませんし、KFORの治安維持活動は今も続いていますが、、近年では少しずつ両者の間で歩み寄りを見せており、両者の緊張も若干緩和しつつあります。

 

 

 

さて、コソボの歴史のポイントを紹介したところで、記事の容量の都合上、今回はここまでとさせていただきます。

 

旅行記といいながら、第1回はプリシュティナ国際空港の到着までとなり、具体的な観光スポットをまったく紹介できませんでしたが(汗)、次回は2日目・3日目にかけてのコソボの見どころをしっかり伝えていく予定です。

ではでは。