こんばんは。

今日の都心は昨日から一転、やや暑さが和らぎ、時折小雨も降る1日となりましたが、最高気温30℃でもまだ過ごしやすく感じるあたり、日本の夏の厳しさを改めて感じます(汗)。

 

とりわけ都心では渇水が危惧される一方、先日の九州北部豪雨に続き今度は秋田で河川の氾濫が起きているのを見ると、本当に天候というのはままならないものですね…。

 

(Olahus, CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=4392089)

 

さて、バルカン半島周遊旅行の出発が明後日に迫る今回は、その予習編の締め括りとして、近代以降のバルカン半島の歴史を概観します。

 

この予習編を通じて、民族や宗教、列強の思惑など複雑な要素が絡み合って今に至る、バルカン半島と今回訪れる国々の基礎知識を習得いただければ幸いです♪

 

 

【バルカン半島の歴史③】

 

4 近世後期-オスマン帝国の衰退と列強の進出-

 

15世紀半ば以降、栄光を極めたオスマン帝国は、さらに領土を広げるため、隣国であるオーストリア帝国に遠征を行いますが、1683年の第2次ウィーン包囲の失敗を契機に、ヨーロッパ諸国からの反撃を受け始めます。

 

18世紀には、オスマン帝国とヨーロッパ諸国の間で、バルカン半島を巡る戦争が断続的に起こりますが、この時点ではまだオスマン帝国は十分な国力を持っていたのと、18世紀末にはフランス革命からナポレオン戦争にかけて、ヨーロッパが大混乱に陥ったこともあり、一進一退の状況が続いていました。

 

 

なお、この時期で重要なポイントは、これまでのバルカン史の中で取り上げてこなかった、北方の帝政ロシア(上はロシアの国旗と国章)が国内をまとめ上げて南下を開始オスマン帝国との戦線が本格化し始めた点であり、このロシアの進出は、同じスラブ人であるセルビア人らには大きな刺激となり、近代の独立運動に繋がっていくことになります。

 

 

5 近代前期-斜陽の帝国と列強の介入-

 

そして19世紀に入ると、近代化に遅れたオスマン帝国は西欧列強との戦いに敗れるだけでなく、列強の後押しを受けたセルビア人やギリシャ人らの蜂起に苦しめられるようになり、相次いで領土を失っていきます

 

(ギリシャ独立戦争の敗北(ナヴァリノの海戦))

 

まず、1817年にはオスマン帝国の宗主権の下ながらセルビア公国が成立、そして1821年に始まったギリシャ独立戦争を経て1832年にギリシャが独立しますが、これは前者はロシア、後者はイギリスの強い後押しによるものでした。

 

こうした列強の脅威に晒されたオスマン帝国は、タンジマートと呼ばれる近代化改革に着手しますが、保守派の宗教勢力や大貴族らの反発に遭い失敗、その間にも列強の介入は止まず、19世紀半ばにはモンテネグロ・ルーマニアにも帝国内の公国として強い自治権を認めざるを得なくなります

 

(CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=490211)

 

ここまでオスマン帝国の劣勢が続き、そろそろ反撃が始まるかというとそんなことはなく(涙)、1877-1878年露土戦争において再び帝政ロシアに大敗を喫し、セルビア・ルーマニア・モンテネグロは王国として独立ブルガリアも自治公国として事実上オスマン帝国の支配から独立します。

 

また、この時に、オーストリアがボスニア=ヘルツェゴビナの行政権を獲得しました。

 

その際、ロシアの南下を危惧するイギリスやオーストリアの介入もあり、ドイツの調停の下、最終的には講和当初(サン=ステファノ条約。上の地図)と比べオスマン帝国が領土の一部を取り戻しますが(ベルリン条約)、ビザンツ帝国滅亡以降のオスマン帝国による東欧 支配が終焉したことは明らかでした。

 

 

6 近代後期-2つの世界大戦-

 

(CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=106523235)

 

露土戦争以降、バルカン半島では汎スラブ主義を掲げる帝政ロシアと、汎ゲルマン主義を掲げて半島進出を窺うドイツ、そして自国内への汎スラブ主義の浸透を危惧するオーストリアら列強の対立の最前線となり、

 

(CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=106523236)

 

1912年・1913年の2度のバルカン戦争を経て、その緊張はピークに達します。

(注:1912年にはアルバニアが独立

 

この危機的なバルカン半島の国際情勢を指す言葉が、有名な「ヨーロッパの火薬庫」という言葉ですが、これは上述の3つの帝国の対立だけでなく、ドイツの伸長を危惧する英仏、そして各々の同盟国(日本・イタリア)などが互いに様々な利害関係を抱えていること、

 

そしてセルビアをはじめとする半島各国が列強の影響下にあることを総称したものでした。

 

そんな火薬庫は1914年サラエヴォ事件セルビア人青年がオーストリア皇太子夫妻を暗殺)で爆発、オーストリアとセルビアの開戦を機に第一次世界大戦が始まりますが、バルカン半島は大戦中、東部戦線の舞台として破壊と略奪に晒され、いずれの国・地域も大きな被害を受けます。

 

そして、戦争中に起きたロシア革命と第一次世界大戦の結果、ロシア・ドイツ・オーストリア・オスマンの4帝国が滅亡、戦勝国であるイギリス・フランスの主導の下、バルカン半島に新たな秩序が形作られ始めます。

 

 

具体的には、セルビア王国とモンテネグロ王国、そしてオーストリアの支配下にあったスロベニア・クロアチアを領土とするユーゴスラビア王国1918年に成立、ルーマニア・ブルガリア・アルバニア・ギリシャ・トルコの5カ国とともに、戦後の復興と内政再建に着手していきます。

 

しかし、ユーゴスラビアではセルビア人主導の国家運営に対し、クロアチア人を中心に不満が高まり、民族(政党)間で衝突が頻発する不安定な状況が続きました。

 

また、1920年代後半からイタリア・ドイツを中心にファシズムが台頭すると、各国でもファシズムを掲げる政党が結成され、1930年代にはイタリア・ドイツ・ソ連が勢力拡大を窺うようになり、バルカン半島は再びきな臭い状況に陥ります。

 

そして1939年に第二次世界大戦が勃発すると、2年後の1941年にドイツ・イタリアら枢軸国がバルカン半島に侵攻し瞬く間に占領、大戦後期まで枢軸国による過酷な統治が続きます。

それに関連して、この時期、枢軸側に付いたクロアチア人勢力(ウスタシャ)によるセルビア人の弾圧が起きました。

 

こうした枢軸側の圧政に対し、果敢にゲリラ戦を展開したのが、ヨシップ・ブロズ・ティトー(写真)率いるパルチザンであり、連合国の支援を受けつつ最終的にユーゴスラビアから枢軸側を駆逐することに成功します。

 

その他、アルバニアはアルバニア共産党、ブルガリア・ルーマニアはソ連、そしてギリシャはアメリカによって解放されますが、米英とソ連主導による戦後処理の結果、ギリシャとトルコを除くバルカン半島の国々は、いずれもソ連率いる東側諸国に属することになりました。

 

 

7 現代-冷戦とユーゴ内戦、そして現在へ-

 

冷戦時代のバルカン半島は、クーデターなどでトルコ・ギリシャの政権がたびたび揺れたことを除き、東側諸国は一党独裁の強力なリーダーシップの下で、比較的安定した国家運営が行われました。

 

特に、上述のティトーは民族・宗教・言語・文字などあらゆる面で多様性を持つユーゴスラビアを上手くまとめ上げるとともに、ソ連の圧力に屈することなく第三勢力の代表として国際社会に重きをなし、今でいうカリスマリーダーとして活躍しました。

 

しかし、1980年にティトーが没すると、その後継者がセルビア人中心の政治を行ったことで民族間の対立が激化、後の内戦の火種がくすぶり始めることになります。

 

また、1980年代後半には、ソ連の衰退に伴う東側諸国の民主化が進み、バルカン半島でもブルガリア・ルーマニア・アルバニアにおいて共産党一党独裁が崩壊しました。

 

(CC 表示 2.5, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=1479659)

 

他のバルカン半島諸国は1980年代に一応の民主化を成し遂げ、現在に至るまで財政等の課題はありつつも、大きな紛争もなく安定した国家体制を確立した一方、ユーゴスラビアは1990年代に入り、激しい内戦の時代に突入します。

ユーゴスラビア紛争

 

 

セルビア人主導の体制に不満を持つ連邦諸国の独立戦争は、1991年6月スロベニア紛争から始まり、この紛争自体はセルビアとスロベニアが国境を接していなかったため、10日間余りで終息し大きな犠牲は出ませんでしたが、これを引き金に、次々と連邦諸国が独立の動きを具体化しました。

 

 

特に、セルビア人と根深い確執を持つクロアチア、いずれの民族も多数を占めないボスニア=ヘルツェゴビナの紛争は、互いに「民族浄化」と呼ばれる虐殺等の蛮行を繰り広げ、前者は4年、後者は3年の長期にわたる泥沼の内戦を経て、NATOや国連の介入もあり、ようやく終息に至ります。

 

ちなみにクロアチアと同じ1991年には、マケドニアも独立を宣言しますが、こちらはセルビア率いる連邦政府は容認し、特に紛争もなく独立に至りました。

 

これは、スロベニア・クロアチアがセルビア及び連邦政府にとって重要な経済先進地域だったのに対し、マケドニアは連邦政府から補助金を受ける後進地域だったためとも言われていますが、それが事実なら、何か厄介払いをされたみたいで民族紛争って何なんだろうって思いますね(苦笑)。

 

その後、1996年にはセルビアの自治州の1つだったコソボ自治州において、人口の大多数を占めるアルバニア人とセルビア当局の間で独立紛争が勃発(コソボ紛争)、セルビア軍と独立勢力の間の武力衝突に加え、アルバニア人市民への虐殺が行われたとされ、国際的な問題となります。

 

セルビアへの国際的な批判が強まる中、NATOは1999年にセルビアに対する空爆を敢行、圧倒的な武力をもってセルビア政府を屈服させ、コソボをセルビアの統治から切り離し、国連の管理下に置くことで紛争を終結させました。

 

 

こうして、連邦国家としての形をほとんど失ったユーゴスラビアは、2003年セルビア・モンテネグロと国名を改め、2つの国の共同国家として再出発を図りますが、

 

 

共同国家の運営に当初から否定的だったモンテネグロは、3年後の2006年に国民投票の結果を受けて独立を宣言、こうして南スラブ人による連合国家は完全に消滅し、セルビアを含む6つの国に分かれ、現在に至ります。

(→さらに、2008年にはコソボが独立を宣言

 

 

以上、バルカン半島の歴史を古代から順に紹介していきましたが、日本人にとって馴染みの浅い地域なので、これでもまだイメージが湧かない部分が多いかと思います。

 

こうした点に対しては、現地ダイジェストや旅行記本編の中で再度、ポイントとなる歴史的事件に触れるなどして、引き続きわかりやすい説明を心がけますので、そちらも併せて御覧いただけると幸いです。

ではでは。