こんにちは。
この週末、首都圏は30℃を超える暑さで、陽射しの強さが辛いものの外出にはちょうどよい日々が続いていますが、皆さんいかがお過ごしでしょうか。…まあ、どこに行っても混雑しているのが悩ましいところですが。
一方、近畿以西では引き続き雨の影響が厳しいとのことで、こちらはむしろ水害等に重々ご注意くださいませ。
【セルビアの概要】
さて、今回の本題は早速ながら久しぶりのバルカン半島旅行記予習編ということで、各国概要紹介で残った1つ、セルビアを紹介します。
セルビアは、バルカン半島中西部の内陸に位置する共和制国家であり、ユーゴスラビア連邦時代には、地理的にも政治的にも中心だった地域です。
国旗は赤青白の三色旗に、王政時代の王室の紋章(双頭の鷲)をあしらったもので、スラブ系国家としては非常にわかりやすいものです。
地理的には、北部はパンノニア平原の大部分を成す緩やかな平原・丘陵地帯、南部はディナル・アルプス山脈の南東部に当たる山岳地帯となっており、
北から時計回りにハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、マケドニア、アルバニア、モンテネグロ、ボスニア=ヘルツェゴビナ、クロアチア、そして領土紛争中のコソボ(注:セルビアはコソボを自国領と主張。)と多くの国と接しています。
首都は、パンノニア平原の中心に位置し、ヨーロッパ最古の都市の1つとされるベオグラードであり、ユーゴスラビア連邦時代には一貫して連邦の首都でした。
そして国土面積はコソボを除くと約7.8万㎢(北海道とほぼ同じ)、人口は約720万人(埼玉県とほぼ同じ)と、今回訪れる国の中でいずれも最大を誇ります。
…とは言っても、世界的には小国と言わないまでも、中規模くらいに属する国です。
続いて民族構成は、国全体ではスラブ系のセルビア人が約83%と圧倒的多数を占め、あとはいずれも5%に満たない少数民族が混在する形となっていますが、北部のヴォイヴォディナ(上の地図の黄色~オレンジの地域)に限り、全体の約3分の1を非セルビア系民族が占めています。
その背景には、ヴォイヴォディナが第一次世界大戦後にオーストリア=ハンガリー二重帝国からセルビアに割譲されたことがあり、今も15%ほどを占めるマジャール人(ハンガリー人)をはじめ、25を超える民族と6つの公用語が存在し、この地域はセルビアの中で強力な自治権を持つ自治州となっています。
こうした自治州の存在は、バルカン半島の複雑な歴史の一端を感じさせられますね…。
(I, Mazbln, CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=2504689)
また、宗教はセルビア人がセルビア正教会、マジャール人やクロアチア人はカトリック、ボシュニャク人やアルバニア人はイスラム教を信仰していますが、上述の民族構成から国民の大部分が正教会の信者と言ってよいでしょう。
(写真は世界遺産のストゥデニツァ修道院)
言語についても同様で、それぞれセルビア語、クロアチア語、ボスニア語(単語や発音等はほぼ同じ)を用いており、セルビア語のみキリル文字が使用されています。
さらに、セルビアの経済を見ると(写真はセルビアの国会議事堂)、通貨はセルビア・ディナール(円とほぼ等価)を用いており、GDPは2015年時点で390億ドルと、同じ旧ユーゴ諸国で人口では大きく上回るスロベニア(385億ドル)とほぼ同じ、クロアチア(約570億ドル)を大きく下回っています。
なお、国民1人当たりGDPで見ると、セルビアは5,400ドルに対し、スロベニアは21,300ドル、クロアチアは12,000ドルと遠く及ばず、元々の経済力の差に加え、ユーゴ内戦の中での経済制裁が未だ尾を引いていることを感じます。
主要産業は、他のバルカン半島諸国と比べるとアルミニウム・褐炭・原油・天然ガスをはじめとする鉱物資源に恵まれていることから、これらの資源の加工・輸出のほか、近年では外国からの設備投資が進み、自動車をはじめとする重工業系の製造業が活性化しつつあります。
また、失業率は近年は18%程度と、周辺地域の中ではそこまで高くなく、農業・軽工業も堅実に推移、さらに近年はコソボ問題も主張の隔たりこそあれ、相互対話・交流が進んできており、バルカン半島の中央という地理的な重要性もあって、今後のさらなる成長が期待されています。
(Tatiana from Moscow, Russia - Novak Djokovic, CC 表示-継承 2.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=36332863による)
そして最後に、セルビアに関して一言触れておきたいのが、ユーゴ内戦以来のややダーティなイメージについてです。
セルビアは、上述のとおりユーゴスラビア連邦の中心として、特に建国の英雄ティトーの死後、他の旧連邦諸国に対し比較的「上から目線」で連邦の運営を行ってきたとされており、それが1990年代のユーゴ内戦、そして2006年のユーゴ解体の原因となったとされています。
とりわけ、ボスニア=ヘルツェゴビナ紛争とコソボ紛争では、セルビアは少数民族を弾圧する悪役と位置付けられ、NATOの空爆や経済制裁、そして国家首脳の国際裁判に至ったことは、30代以上の方は記憶にあるかと思います。
そういった背景から、今もセルビアにはマイナスイメージが付きまとい、その影響はセルビア出身の世界的なテニスプレイヤー、ノヴァク・ジョコビッチ氏(写真)に対する、メディア等のややヒールめいた扱いにも及んでいると言われています。
(まあ、彼の性格も難がないとは言いませんが…。)
しかし、現実はボスニア・ヘルツェゴビナ紛争を例に取ると、ボスニアもセルビアも、「民族浄化」を互いに行っていたのに、ボスニア側が欧米の広告代理店を利用してセルビアの弾圧のみにフォーカスを当てて報道させ、「セルビア=悪」というイメージを世界中に植え付けたことが明らかになっています。
国際紛争の中で、こうした一方当事者の思惑が如実に取り入れられた情報発信は、湾岸戦争やイラク戦争など、他に枚挙に暇がありませんが、ここで大事なのは「ボスニアも悪い」と主張するのではなく、常に冷静に社会を見る目を養うことだと個人的には考えています。
(注:私は別にセルビアを積極的に支持してはいません。)
メディアの過度な報道に踊らされず、様々な情報ソースから合理的に判断していく、そして特定の歴史事象をもってその国の人を否定的に論じない、これらは私を含め感情を持つ個人には大変難しいですが、セルビアの例や先日の都議会議員選挙を見るにつけ、その重要さをより実感する今日この頃です。
【バルカン半島の歴史①】
さて、ちょっと偉そうに教訓めいた話で締め括った各国の紹介に続いては、いつもなら各国の歴史に進むところですが、予習編ではバルカン半島という地域全体の歴史について、入門的に紹介していきます。
というのも、日本人にとってバルカン半島というと19世紀末~20世紀初めの「ヨーロッパの火薬庫」として学んだ以外はイメージが薄いですし、そもそも各国の単独の歴史も半島全体の歴史が前提となってきます。
その点、まずは旅行記の前提知識として、バルカン半島のイメージを持っていただければと思っています。
1 バルカン半島先史・古代
まず、そもそもバルカン半島自体についてですが、地理学的には上の地図のとおり、ドナウ川とサヴァ川を北限とし、アドリア海・イオニア海・地中海・エーゲ海・黒海に面した、ヨーロッパ南東部の地域を指します。
(注:ルーマニアやスロベニアを含めるかは議論あり。)
そして、この地は東方のアナトリア半島やコーカサスとヨーロッパとの境という地理的重要性から、古代より様々な民族が入り込み各々勢力を築き上げ、また東ローマ帝国(ビザンツ帝国)やオスマン帝国など、世界的な多民族国家・大帝国が進出と紛争を続けてきた歴史があります。
先史時代には、イリュリア人(アルバニア人のルーツ)、トラキア人(ブルガリア人のルーツ)ら、現在の各民族の起源というべき古代民族が集落、そして小さな都市を造り集住を始め、
その後古代にはアケメネス朝ペルシアの侵略や、ギリシャにおける都市国家の成立などが進みましたが、古代バルカンを語る上で欠かせないのは、
(Map_Macedonia_336_BC-es.svg: Marsyas (French original); Kordas (Spanish translation)derivative work: MinisterForBadTimes (talk) - Translation of Map_Macedonia_336_BC-es.svg (data from R. Ginouvès and al., La Macédoine, Paris, 1992), CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=7398609による)
B.C.4世紀後半に全盛を極めたマケドニア王国です。
王国自体は、B.C.7世紀頃にギリシャ人によって現在のマケドニア・アルバニア・ギリシャ北部に建国され、300年近くの間、アケメネス朝ペルシアと古代ギリシャの諸ポリス(都市国家)の脅威に晒される中、巧みな外交で国土を保ってきたところ、
(上の地図はB.C.336年頃の勢力図)
B.C.336年にアレクサンドロス3世(大王)(上の壁画)が即位すると、その13年余りの在位の間に、破竹の勢いで西はバルカン全土、南はエジプト、そして東はアケメネス朝ペルシアを打ち滅ぼし、西インドまで広がる大帝国を築き上げました。
上の地図を見ると、その領土の広大さがよく理解できると思いますが、このアレクサンドロス3世の東方遠征は、ギリシャ文明の伝播や東西文化の交流に大きな役割を果たし、いわゆる「ヘレニズム文化」の発展に大きく貢献することになります。
(Goran tek-en, CC 表示-継承 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=37311518による)
そんな空前の大帝国も、アレクサンドロス3世がB.C.323年に急逝すると後継争いの果てに分裂、バルカン半島はアンティゴノス朝が統治を行いますが、B.C.3世紀末には勢力の伸長著しい共和政ローマの脅威に直面することになります。
(上の地図の紫がアンティゴノス朝、青が共和政ローマ)
そして、B.C.214年から始まる4度のマケドニア戦争により、共和政ローマはアンティゴノス朝を滅ぼし、B.C.148年にバルカン半島一帯を属州としました。(マケドニア属州の成立)
属州時代のバルカン半島は、細かな区域変更や分割などはあったものの、他国に隣接しなかったこともあって、共和制・帝政を通じ平和と安定の時代が続き、農業・商業だけでなく、ギリシャでの学問の発展も見られました。
しかし、3世紀末からローマ帝国が衰退の時代に入り、帝国が4つに分割(東西2人の正帝と2人の副帝が各々統治。テトラルキアと呼ばれます。)にされると、バルカン半島は東方副帝の支配下となり、その宮廷がシルミウム(現在のセルビア北西部)に置かれます。
(Cplakidas - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=11113783による)
さらに、395年にローマ帝国が東西に完全に分裂すると、バルカン半島は東ローマ帝国(上の図は帝国の国旗)の属州となり、中世初期を迎える訳ですが、記事の分量と時間の都合上、今回はここまでとします。
次回は、諸勢力や大帝国間の争いが渦巻く中世・近世のバルカン半島の歴史を中心に紹介していく予定です。
ではでは。