こんばんは。
昨日は蒸し暑さがひどく、うちのオフィス内は大変過ごしにくい1日でしたが、皆さんの職場・学校はいかがでしたでしょうか。

 

うちの会社では、5月から10月末までノーネクタイ勤務が推奨されているのですが、ジャケットすらもう要らないと思う今日この頃です…。

さて、今回からは、ここしばらくギリシャ旅行記の仕上げに全力で取り組んでいた関係で、ちょっと放置していたポーランド旅行記を定期的に更新していきます。

前回は、ポーランドの全体概要とザモシチ観光の前半をお伝えしましたが、今回はザモシチの街を作った大貴族ヤン・ザモイスキが活躍した16世紀後半から17世紀前半のポーランドの全盛期について解説し、その後ザモシチの紹介を再開します。


【ポーランドの歴史(全盛期の栄華)】
 

(Mathiasrex, CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=7180210による}


こちらは、1635年当時の地図ですが、クリーム色の部分がポーランドの最盛期かつ最大の領土を表しています

中世~近代のポーランドは、隣国のリトアニアとの関係が非常に深く、世界史でも有名なヤギェウォ朝の王家はリトアニア出身だったほか、ヤギェウォ朝の断絶後にはポーランド・リトアニア共和国という同君連合国家が、18世紀末まで続いていたほどです。

地図のとおり、全盛期のポーランドは現在のポーランド東部、リトアニア、ベラルーシ、ウクライナ北部にラトビアを領有しており、オスマン帝国やハプスブルク・オーストリア帝国、スウェーデン王国にモスクワ大公国などの列強と肩を並べるほどの大国でした。

しかし、周辺の列強との違いは、ポーランドは貴族の選挙で王が選出されるなど、歴史的に王権が弱く、大貴族(マグナート)と下級貴族(シュラフタ)が割拠していたことから、国内の権力争いが絶え間なく続いた点でした。


そして、ポーランドの黄金時代は17世紀中盤に入ると落日を迎え、国内の権力闘争が続く中でバルト海の覇権を狙うスウェーデン、リューリク朝滅亡後の混乱を乗り越えたロシア、さらにオスマン帝国からの版図奪回に成功したオーストリアの侵攻を受けていくことになりますが、そちらはまた後述ということで。

 


このポーランド・リトアニア共和国にあって、初期の大法官(宰相)兼大元帥として黄金時代を文武両面で支えたのが、ザモシチの街を作ったヤン・ザモイスキなのです。

ちなみに、ヤン・ザモイスキの最も有名な発言が、「黄金の自由」と呼ばれる共和制の中での王のあり方を示した「君臨すれども統治せず」です。世間ではイギリスを象徴するフレーズとなっていますが、実はポーランド発というちょっとした豆知識でした♪


3月5日(木曜日) ザモシチ②

さて、ここからはザモシチ観光の紹介ということで、街の外れから違う道を通って中心部に戻る途中、
 

   
どの広場・通りでも多彩な色の建物を楽しむことができました。

 

 
この周囲とは一風変わった建物は、かつてシナゴーグ(ユダヤ教の教会)だった公立図書館です。ポーランドは歴史的にユダヤ人を含む他の民族・宗教に大変寛容で、これから訪れる古都クラクフにもかつて大規模なユダヤ人コミュニティが作られていたほどでした。
 


このポーランドの寛容さは、前回ご紹介した、この大市場広場の鮮やかな色と装飾の建物群アルメニア商人の邸宅だったことにも現れています。

その一方で、国家間・宗教(宗派)間の抗争が頻繁に行われていた近世ヨーロッパにあっては、他者への寛容さや自由だけでなく、自らの領土・領民を守るための軍備が当然必要となります。
 

   
この点、前回少し触れましたが、ザモシチはほぼ五角形をなす堡塁で囲まれた城塞都市だったため、かつての兵器庫(1枚目)のほか、旧市街の外周の至る所にかつての稜堡(バスチオン)を見ることができます。
 

 
ちなみに、東側のバスチオンは現在は主に博物館として利用されていますが、一部に普通の商店が入っています。個人的には、2枚目の洋服店が違和感バリバリでしたね(笑)。
 

  
ザモシチ観光の最後は、外から見たバスチオンの景色です。かつての堀の跡も残っていて、当時はかなり堅固だったことが想像できます。たぶん、日本の方からすると函館の五稜郭みたい、という印象を持つ方もいるかもしれませんね。

こうしてザモシチ観光が終わり、その後はクラクフへの移動とホテル到着後の休憩で、この日はほぼ終わりました。
 

 
この日から3連泊するホテルは、中心部から少し離れた学生街に隣接していましたが、そんな場所なのにカジノが併設されていました。
やっぱり日本とはカジノに関する意識がまったく違うなあと思いつつ、のんびりお休みしました♪


3月6日(金曜日) クラクフ①

この日から2日間は、古都クラクフ及びその郊外を観光しました。


クラクフは、中世(11世紀中頃)から1596年のワルシャワ遷都までの約550年間、ポーランドの王都だったいわゆる「古都」であり、首都としての歴史は現在の首都であるワルシャワ(約420年間)より長い、歴史と伝統ある都市です。

特に、有名なヤギェウォ朝の時代にはプラハやウィーンと並ぶ繁栄を見せ、その面影はかつての王城であるヴァヴェル城や中央広場付近の壮麗な建築物に見ることができます。

 

また、この都市はポーランドの他の都市と異なり、第二次世界大戦の惨禍を逃れることができたため、現在も中世の街並みを色濃く残しており、クラクフの旧市街はユネスコの世界遺産に登録されています。

加えてクラクフの郊外には、ポーランドの経済を長く支えたヴィエリチカ岩塩坑、そしてユダヤ人弾圧の象徴というべきアウシュヴィッツ・ビルケナウ強制収容所など、ポーランドの光と影を象徴する施設もあり、クラクフ及びその郊外は、現在ポーランドで最も有名な観光地となっています。
 

 
こうした点を踏まえつつ、この日は初めに旧市街からちょっと離れたところの、かつてのユダヤ人地区であるカジミエシュ地区を散策しました。

 

こちらは、現在はユダヤ人博物館となっているスタラ・シナゴーグですが、正直ガイドブックでそう書かれないとわかりません。
 

     
こちらは広場周辺の様子ですが、朝が早いこともあって人影はまばらでした。ちなみに、現在この地区にユダヤ人の方はごく少数ながら住んでいるそうです。

 

あと、戦後に多くのユダヤ人が去ったことで荒廃していましたが、最近はお洒落なカフェの進出をはじめ、少しずつかつての華やかさを取り戻しているのだとか。
 

 
街の建物を注意深く見ていると、ところどころヘブライ文字表記が確認できるのは、この地区ならではでしょう。

かつてこのカジミエシュ地区は、ヨーロッパ最大級のユダヤ人居住区として栄えていました。

 

しかし、第二次世界大戦でナチス・ドイツがポーランドを占領後、ユダヤ人たちはクラクフ市内の別の場所に隔離し(クラクフ・ゲットー)、そこでの厳しい生活を強制されます。

クラクフ・ゲットーに隔離されたユダヤ人のその後の運命は、皆さんもご存知のとおり、強制収容所への移送などを経て、多くの方々が犠牲となりました。

 
その犠牲を悼むため、地区の広場の中央には慰霊碑が建てられています。

 

慰霊碑のレリーフによれば、クラクフとその周辺で暮らしていた約65,000人のユダヤ人が、ナチス・ドイツによって殺害されたそうです。
千代田区の人口(約53,000人)より多くの人々が虐殺されたという悲劇には、言葉を呑むほかありません。

 

また、次の日に訪れるアウシュヴィッツもそうですが、こうした過去の記録を生で見た衝撃は、本やテレビで見るのとはまったく違い、心に突き刺さるような痛みと怖さを伴うものでした。

なお、このカジミエシュ地区とヴィスワ川を隔てた対岸には、第二次世界大戦中に多くのユダヤ人を救ったことで有名なオスカー・シンドラーの工場があるそうですが、残念ながら今回は時間がなく、そちらを訪れることはできませんでした。

ちなみに、シンドラーといえば映画の「シンドラーのリスト」があまりに有名ですが、こちらのカジミエシュ地区もそのロケ現場として使用されたそうです。


カジミエシュ地区の紹介が終わったところで、今回はここで終了となります。

 

次回はヴァヴェル城と旧市街の様子をご紹介する予定です。ただ、ヴァヴェル城は写真撮影禁止のところが多く一部ガイドブックの写真となってしまう点は、あらかじめご了承ください。
ではでは。