まさかの、私以外の家族全員が... | みーあ奮闘記〜40年間の軌跡と今、そしてこれから〜

みーあ奮闘記〜40年間の軌跡と今、そしてこれから〜

自分より家族や周りを優先するのが当たり前で過ごしてきました。今では私がどうしたいか?どうありたいか?を日々自分に問いかけて行動できてる私がいます。辛かったエピソードも交えながら、私という人間を知っていただけたら嬉しいです♡


『ここから飛び降りたら楽になるかな』

『死にたい』

『もう生きててもしょうがない』


マンションに住んでいたため、仕事中そんなメールが鬱の母から来ると気が気ではなかった。会社を早退もしたことも度々あった。


そんな言葉を母の口から、そして母からのメールから毎日のように聞かされた。辛かった。どうしようもなく辛かった。


でも、母の笑顔をもう一度みたい!絶対大丈夫!今は辛いけど、絶対家族で幸せに笑っていられる日が絶対くる!そう思いながら、根気強く励ましていた。


『お母さんが死んじゃったら、私もみんな悲しむよ』『私がいるからね』そんな優しい言葉をかけ続ける日々。



家族が寝静まった真夜中、1人で自転車を飛ばして誰もいない公園に行き1人でただただ泣いた日もあった。不安に押しつぶされそうになるけど、絶対諦めない!そう自分に誓った。

少し母の希死念慮が落ち着いたある日、急に病院から連絡があり当時20歳の妹が友達数人で遊んでいる時に海で溺れて、意識混濁の状態だと。




現実を受け入れられず、自分の感情も分からなくなるほど動揺したのを覚えている。まだまだ鬱状態の母と共に、救急で運ばれた病院へタクシーで急いで向かった。

到着するなり、急いで妹のいる病室へ。担当医師から『意識は朦朧としているものの、幸いにも命には問題ない』とのことで、安心した。ただ、PTSDがひどく、トラウマ症状がある為、精神病院への入院が決まった。

その日から両親と私の3人暮らしの生活が始まった。数日後、父から私に『実は精神科で抗うつ剤をもらって飲んでる』ということを言ってきた。




もうキャパオーバーというか、意味が分からなかった。自分以外の家族全員が心の病に犯されているという現実。

22歳の私には、この辛い現実はとうてい受け入れがたいことだった。まるで越えられなそうな、固くて高い壁。

でも、どこかで乗り越えられないことなんてやってこない。乗り越えられることしか訪れない。そんな言葉がふっと頭をよぎった。『大丈夫!乗り越えられる!』と、強くて諦めないもう1人の自分がいた。→つづく