静岡参戦に至った経緯と決意 | 静岡支部員のひとりごと

静岡支部員のひとりごと

日本プロ麻雀連盟の静岡支部が運営するブログです。このブログを機に静岡支部に興味を持っていただけたらと思います。

昨年の暮れ、A2リーグの最終節を画面から観戦していた。
望月の髪型には多少の違和感を覚えたが、Aリーグ残留をかけた争いは古橋が安全圏に抜け、望月の国士無双も不発となり、後半の焦点は仁平・客野の競りとなっていた。
試合中は望月の坊主姿の本当の意味など知るよしもなく、白熱した"その試合"をただ観戦者目線で観ていた。

結果は客野残留となり、放送は感想戦に入る。
実況・日吉から振られるコメントを先に仁平に促す坊主姿が急に客観的に見えた。

その瞬間 ・・・「まさか」とは思った。

直後、放送内にて望月がリーグ戦引退宣言をしていた。



私は静岡出身ではあるが、所属は東京本部である。
私が連盟入りした後に静岡支部の立ち上げがあったということもあり、東京を活動の拠点としていた。

プロ入り間もない20代当時は経営者志向が強く、都内に2つの小さな店舗を構えたが、選手としての活動は中途半端な感は否めなかった。

一方で私が6年かけてやっとCリーグを抜けたその年、望月は鳳凰位決定戦の舞台にいた。
今から12年前のことである。
しかし、望月の鳳凰位戴冠はあまりに鮮烈であったため、昨日のことのように思い出せる。
同郷の同い年が最年少鳳凰位となった瞬間を、私は一番近くで観ていたのである。
心が震える見事な最終半荘であった。
余談ではあるが望月は決定戦前日、調整場所に私の店を選んでくれていた。


時は経ち、今から2年半ほど前の3月。
協会主催の日本オープン本戦の日だった。
望月とは久しぶりの再会だったのだが、臆せずに接してくれたのを覚えている。
この時は主に静岡の試合のことを話した。
東京本部の選手が一時的に参加することも歓迎だと言ってもらったのであるが、その年の参戦は留意した。
その翌年も日程的にさらに難しくなっていて、参戦は見送っていた。
そんな折りに望月がリーグ戦を引退宣言。

労いの気持ちは当然わいて出たが、それとは別に罪悪感に似た何とも言えない感情に苛まれた。
同じ静岡人でありながら静岡のために何もしてこれなかったことを悔いた。
私ごときに何かできたとは思わないが、せめてこの決断に至るまでに少しでも望月の言葉を聞いておきたかったと…。

しかし、この件の余韻冷めやらぬ年明け早々に、連盟チャンネルのBattle of generationという対局番組のマッチングが発表された。

何と望月と同卓になったのである。
試合までの期間、競技者としてまた連盟員として、自分の生活環境や今後の活動ビジョンをできる限り頭の中で整理した。
そして当日の試合前、望月に対局後に時間をとってもらうよう直訴した。
試合は共に惨敗であったが、積もる話は食事の時間だけでは到底足らず、送ってもらう車中で聞きたいことを全部聞いた。

微力ながら静岡支部のために何かできそうな気がした。
何より望月の言葉、一つ一つが心に響いた。

この日に今期からの静岡参戦を決意した。


もともと朧気に40までにタイトルを獲りたいと思っていたが、何も勝てないまま40になった。
店をやめてからの直近5年はプレイヤー在りきで活動しているが、結果が出ていないのは事実であり、劣等生であることを受け入れる時期にもなっていた。

同年代の活躍者が多く、特に我々17期生は「華の17期」と言われることもある。
正直、自分にとっては耳が痛かった。
何でも良いから勝ちたいと思うようになり、とにかく試合に飢えるようにはなっていた。

私は静岡市内に実家がある。
母親に子供の頃を過ごした六畳間を使えるよう頼んだ。
後輩の中野妙子プロには静岡市での仕事を手配してもらった。
元来の拠点となっていた関東圏の職場にはそれぞれワガママを許してもらい、晴れて環境が整った。

果たして、競技麻雀のためにこれだけの行動力を出せたことなどこれまであっただろうか?
もちろん、様々な協力を得てのものであるが、麻雀としっかり向き合う良い機会をもらえたと感じた。
多少の不安もあったが、それ以上の"圧倒的義務感"で対局に臨むこととなった。

満を持して東京・静岡の二重生活が始まり、あっという間に半年が過ぎた。
不思議と全ての試合で今までにない意識の高さが生まれた。
静岡参戦は相乗効果のようなものを導き出し、東京でAリーグに昇級し、静岡リーグでは決勝に乗れた。
半年でそれなりの結果が出せたのである。

これはただのきっかけに過ぎないが、今回私がとった「静岡逆輸入スタイル」はできることなら静岡支部のために流行らせていきたいとも思う。


静岡プロリーグも決勝を目指すに値する位置にいる。
そして、新たな挑戦も間近に迫っている。

"準静岡支部員"となった今、静岡を少しだけ背負って戦って行きたいと思う。
そして、今後は何かしらの道標になれたらとも思う。



藤島 健二郎