【講評】特選五句について 中原道夫選・評 [兼題]当季雑詠
秋風も観客にして村歌舞伎 板見耕人
勿論、観客が疎らだから秋風も観客にしたのではない。村歌舞伎の行われている過疎、山間の地には一足先に秋がやって来ていて、涼やかな夜ともなれば肌寒く感じられる、そこを読み取る必要がある。秋風も観客に〝して〟より〝入れ〟でも良かったかと村歌舞伎の賑わいを想像してみるのだ。
捨案山子大の字になり石枕 柳沼宝海
捨案山子という季語はあるが実際にカカシを作ったら農業を止めない限り一回で捨ててしまうということはまずない。翌年も草臥れて来た部分など取り替えてまた田圃に立たせる。田から抜いて畦に寝かせたモノを便宜上〝捨案山子〟と思ってよい。ちょうど都合よく路肩に石があった…とすれば何もないより硬くても石の枕くらいほしいと作者は思ったよう。
夜長し遺品整理の縁とは 池永一生
「縁」から類推して直系つまり子供ではないよう。偶々知り合いになった程度の関係でも、生前仲良くして頂いたのだから貴方も故人の愛用していたもの貰って欲しい、と言われたと勝手に想像する。以前より時々家にお邪魔するくらいの間柄だったのかも知れない。あれやこれやと故人の話をするうちに夜も更けて―。
主無きままの暗室夜半の秋 池永一生
暗室を持つくらいの人だから趣味が昂じたか写真家か、という処だろう。どのくらい主が亡くなってそのまま放置してあるのか想像の域を出ない。残された人も時折覗く程度なのだろう。夜半の秋から集(すだ)く虫の音も遠ざかりつつある感じ。〝残る虫〟と下五に据えることも出来るが、ここは〝夜半の秋〟でむしろ読者に聴覚は任せた方が得策と思える。
思い出もはるかに芙蓉ちる途中 栗原けいこ
想い出もはるか―は叙述の為方として普通なのだが「芙蓉ちる途中」のフレーズが下部に来ることに因って散る途中すなわち現在進行形―地べたに芙蓉の花は着置せず、ずっと空間に留まって浮遊しているかのような錯覚を受ける。そしてその芙蓉ちる―は遥か昔の思い出の中のシーンのようであり時空のズレを永遠に有した儘、眼前にあるという不思議な句である。
〈全出句・得点順〉
特6 秋風も観客にして村歌舞伎 耕人
6 できた事できないと泣く妻の秋 青眠
入5 音出しのカウントはギター秋の宵 うらら
入5 朝寒に羽織る一枚ミルクティ 亜紀
入4 週末を籠り獣のやうに冷ゆ うらら
特3 捨案山子大の字になり石枕 宝海
特3 夜長し遺品整理の縁とは 一生
特3 主無きままの暗室夜半の秋 一生
入3 三日月の湾に漁船のあかりあり はつ音
入3 片付けという名の始末秋高し はつ音
3 伊那谷の秋を左手(ゆんで)に飯田線 耕人
3 鍵穴を探して瞑し暮れの秋 溢平
3 じうじうと秋刀魚焼けたり酒を持て 溢平
特2 思い出もはるかに芙蓉ちる途中 けいこ
2 大太鼓雲わきあがる秋祭 けいこ
2 逆上がりひとり練習つわの花 をさむ
2 あおき海あかねに満ちて秋来たる 青眠
2 微笑むも朗笑もある新酒かな うらら
2 この月をまた見るときは土の中 宝海
2 秋空は天晴れパレット青絵の具 溢平
入1 秋映す節穴覗く遠き過去 一生
1 初めての席を譲られ秋団扇 をさむ
1 中空の中秋の月望の月 亜紀
秋日和米寿隠せず友集ふ 宝海
荒滔々オーロラ求め火の国へ 青眠
東京の地霊求めて九月尽 をさむ
好物の横目ですぎる石榴かな はつ音
ふる里や時間指定の今年米 亜紀
杜鵑草そなへインコの墓の辺に けいこ
刈入れの後の棚田に風清し 耕人
※次回の11月28日(火)は会員互選句会、12月19日(火)は中原先生句会(午後2時から新橋・生涯学習センター)です。