時期的に新しい年度の人が入ってくる時期です.会社でも研究室でも新入社員・新配属学生が多い時期でしょう.
この時期によく話題に上がっているのが,
「最近の若い人は言われないとできない」
というハナシ.
私も,つい「今年の人は…」とか「最近の人は…」と言ってしまうことがないとはいいませんが,それだけのくくりで話をされても,された方も困っているだろうというのが私の感覚です.
まず,どの時代も「このごろの若い人は…」って言われているのです.言い方は悪いですが,自分たちも入ったばかりの頃は陰でいろいろ言われていたのだろうと思います.だから,自分のことは棚に上げて,入ってきたばかりの人のことを「今年の新人さんは…」と言ってしまう.まあただ,ここまでは私はご愛嬌として済ませれば良いと思うんですね.もし新人さんがそれを直接聞こえてしまっても,過度に不快に思わず,「まだまだ覚えなくちゃならないことがあるんだ.コツコツやっていこう」と思えれば勝ちです.
ただ,もう少し冷静に考えてみると,新入社員の方々は,たぶん,仕事をするということが本当の意味でリアリティをもって理解できていないということはあるのではないかなと思います.仕事をするというのは,自分がその所属する会社に対し,それなりの貢献をしてその対価として給料を貰うのです.どこかの大学を出ているから,大学院を出ているから,研究室でこういうことを学んできたばかりの人だからお給料を貰えていると考えてはいけないのですね.
もちろんそういったことは「期待されている」ことに間違いはありません.ですが,あくまでも「期待」であって,学歴や研究歴はそのままでは「貢献」にはなりません.そういった期待を持って貰える自分のバックグラウンドを会社のために活かして始めて貢献があるし,評価されるというものです.この順序,冷静に考えてみると気付くと思うのですが,勘違いしていると気付けないことがある.
勘違いしていると,「何だ,言われたことしかできないのか」なんて言われると,途端に戸惑ってしまう.あるいは,腹さえ立ってしまう.それくらいならまだ良いのですが,場合によっては「理想の会社生活と違う」なんて大袈裟に誤解を重ねてしまって,五月病,早々と転職を考え出すということにもなりかねない.
まあ待てと.言われたことしかできていないと言われたことにたいして,まずは自分がどの程度貢献したかよく考えてみましょう.言われたことはほんとうに100%のクオリティで実現できていますか? 言われたことを、本当に落ち度無く100%できるというのは大切であり,もっと言うと,最低限のラインです.自己基準・自己判断で「俺はやった・できた」と思うことも大切ですが,社会人としては,他人の評価をもって客観的に自分を見るということもして欲しいもの.それでほんとうに言われたことは100%の完成度でできていて,言われたことができていないのなら,できている点は現状維持.そのレベルを落とさないようにすれば良いだけ.逆に,言われてもいないことをできるようになるためにはどのように先輩・上司の意見を聞いたら良いのか? こを改善していくことを課題として取り組めば良いのです.
もし,言われたことも完全にできていないという状況であれば,やはり言われた以上のことをできるようになるということも大事だが,言われた業務内容を正確にこなせるようにしなくちゃならない.まずはそこができないことには,それは他の人の業務を邪魔,または足を引っ張る可能性もある.
大切なことは,まず自分を見つめて,自分がやるべきことをやれるようになっていくことなのです.
ただし,少し上の人に肩を持つとすれば,大学・大学院で学生生活を謳歌してきた人のほとんどは,人に貢献して対価が支払われると言うことに,まったく慣れていない人が結構多いのではないかと私は思っています.そういう人は,指示された仕事は80点(所詮はこの程度)くらいはできるのです.ところが,残りの20点をアップさせる努力もしないし,次に,指示されてはいないが,自分の所属する部署・部局で共有している目的を理解し,その目的を実現するために自分が何をしなければならないか,そのリサーチをしない人がとても多い気がします.これは大学の研究室でも同じですね.そういう人は,余裕があるときは指示された内容を80%はこなしてくる.大学教員はそのくらいできておれば,それ以上,細かくスパルタ的にもっとやれととても言いにくい状況です.本人も優等生として扱われる.そこに満足していたら,社会に出たときにギャップを感じるのだろうと思いますね.80%ではだめなのですね.そして,少し他にやることがでてくると,その80%のクオリティが落ちてくることが多い.やはりそれでは,社会に出て仕事を任せようとなったときに頼りなくて仕方ないんですね.80%できるのならば,常に80%できているのならばまだ任せられるんです.ですが,自分の都合で到達度のクオリティを変える人はには,責任ある仕事を任せられない.
先輩・後輩で教えあって欲しいと,到達目標を伝達しても,先輩は最低限のことだけ教えたらあとは「これは上司の仕事.教員の仕事」として,目的が完遂されていないのに,もう自分の仕事はやったというようにゴールに達した感になっている人は,やはり責任のある仕事を任せられないですね.
まあそういう人に話を聞くと,責任を任せられるのがいやだとか,責任持てないといった消極的な意見が返ってきますが,このあたりを改善するのはなかなか難しいですね.ただ,就職活動でも多かれ少なかれ感じ取れることが多いから,幹部候補のような採用には至らないことが多いですね.
一つ仕事が終わったら「何か他にやっておくことはないですか?」と自分から言う人は確かに,五,六年前と比べても激減した気がします.そういうことを考えられることが大事だという課題は与えても,周りにそういう人がいないから,どうして自分だけがそうしないといけないか?というように現実味がわかないような雰囲気はあります.これは何なのだろう?と思うことはありますが,研究室で教えられないことを,会社に入って教えるというのはまたなかなか難しいのではないかと思うので(一部の人は給料というもので変わると思いますが),最近は,まずは自分で興味を持ったことについては,自分でいろいろ考えてやってみるということを課題にしていたりします.
会社の人にしてみれば,大学というものはいったい何をやっているんだ?と思われるのかもわかりませんが,実のところ,大学は大学でまた同様な観点で悩んでいたりするのです.私からの提案ですが,企業の方で大説明会をやるのも良いのですが,ラボ単位で小さなセミナーをやって貰い,その内容について研究室の教員がフィードバックして,研究室でやっていければ社会に出てもスムーズに行くんだということを,企業・大学が小さい単位でタッグを組んで学生に提示していかないといけないのではないかと思うのです.
学生さんというのは,良い意味でも悪い意味でも身勝手で,自分の権利を主張して許されるとそれで満足してしまう傾向があります.それはそれで良いのですが,やはり将来のために今,勉学に励んでいるということをよく理解しなければならないし,研究室で,教員などとタッグを組んでよく仕事のできる人は,私はやはり会社に入っても重宝されると思うし,私の体験ではそういう人は大抵,将来有望株として採用されていることが多いですね.人事の方もよくみているなあと思います.
話がずれましたが,若手の人にはまず,システマティックに課題を与えるのは一つ重要で,安直に「言われたことしかできない」と言ってしまうと,最近は安直に反発されてコミュニーションが破綻する危険性が高いので,到達点に対する評価を与えてから,よりよい目標を提示してあげると,できる人はできると思います.もちろんそれでもできない人もいます.まあそれは嘆いていていても仕方ないですから,できる仕事をこなして貰うしかないですね.その中で,何か磨かれていけば幸いというところでしょうか.そして評価査定については,客観的に.どんな反論をされても論破できるくらいの客観的な評価を用意することですね.
先日,ある学生が教授にメールで文章のファイルを添付して添削の依頼をしていたのだが,文頭に「お疲れ様です」と書いてあるのを見つけて,それは少し注意をしました.
知人,友人に聞いたり,ネットで交わされている意見をみていると,ビジネスの場においては,「お疲れ様でした」は上司に向かっても使え,「ご苦労様でした」は上司に向かって使ってはならないといったことを研修で教えたりするそうです.
ただし,それは外営業から帰ってきたときとか,そういう場面でのことだと思います.これから労力がかかることを依頼するときに,目上の人に向かって依頼者自ら「お疲れ様です」と言うのはおかしいと指摘しました.
ジョークを交えて返すならば「これから疲れるんじゃい(お前のせいで)」とでも切り返したくなるからです.そう考えると,物事を頼むときに先に「お疲れ様です」なんて言うのはとても滑稽で,やはり失礼なのではないかと思います.
添削などの依頼というのは,相手に手数をかけるのです.相手が忙しくて疲れているところを頼むという気持ちを表現するのなら,「お忙しいところ恐れ入りますが(お手数をお掛けしますが),よろしくお願いいたします」だと思うのです.あるいは,依頼文の前半で「お手数をおかけいたしますが,添削をお願いしたく思います」と要件も含めて書き,「よろしくお願いいたします.」で結ぶのが無難ではないかと思います.さらに「依頼」は,相手を立ててはいないので,これも注意すべきではないかと思います.
また,「お疲れ様でした」という言葉はやはり上の人に対して使うものではないという意見もあります.現状,ビジネスライクには,上述のように通っているようですが,私は上の人に使うべきではないという意見もよくわかるのです.
苦労をねぎらうときでも,「お疲れ様です」は,どちらかというと,対等な立場同士で使う言葉で,習慣上,目上の人に対しては注意が必要と認識しておくのが良いのではないでしょうか.
もちろん,上司,目上の人との関係でそのような言い方が許されているのであれば,他人がどうこう口をはさむ問題ではありませんが,その職場の人間関係で問題のないことでも,環境が変わればとらえ方が変化する可能性はあるので,意識しておいても損にはならないのではないでしょうかね.
知人,友人に聞いたり,ネットで交わされている意見をみていると,ビジネスの場においては,「お疲れ様でした」は上司に向かっても使え,「ご苦労様でした」は上司に向かって使ってはならないといったことを研修で教えたりするそうです.
ただし,それは外営業から帰ってきたときとか,そういう場面でのことだと思います.これから労力がかかることを依頼するときに,目上の人に向かって依頼者自ら「お疲れ様です」と言うのはおかしいと指摘しました.
ジョークを交えて返すならば「これから疲れるんじゃい(お前のせいで)」とでも切り返したくなるからです.そう考えると,物事を頼むときに先に「お疲れ様です」なんて言うのはとても滑稽で,やはり失礼なのではないかと思います.
添削などの依頼というのは,相手に手数をかけるのです.相手が忙しくて疲れているところを頼むという気持ちを表現するのなら,「お忙しいところ恐れ入りますが(お手数をお掛けしますが),よろしくお願いいたします」だと思うのです.あるいは,依頼文の前半で「お手数をおかけいたしますが,添削をお願いしたく思います」と要件も含めて書き,「よろしくお願いいたします.」で結ぶのが無難ではないかと思います.さらに「依頼」は,相手を立ててはいないので,これも注意すべきではないかと思います.
また,「お疲れ様でした」という言葉はやはり上の人に対して使うものではないという意見もあります.現状,ビジネスライクには,上述のように通っているようですが,私は上の人に使うべきではないという意見もよくわかるのです.
苦労をねぎらうときでも,「お疲れ様です」は,どちらかというと,対等な立場同士で使う言葉で,習慣上,目上の人に対しては注意が必要と認識しておくのが良いのではないでしょうか.
もちろん,上司,目上の人との関係でそのような言い方が許されているのであれば,他人がどうこう口をはさむ問題ではありませんが,その職場の人間関係で問題のないことでも,環境が変わればとらえ方が変化する可能性はあるので,意識しておいても損にはならないのではないでしょうかね.
料理の味というものは,その日その人のそときの気分によって変わりうるものではないかと思う.
科学的には体調.体調が悪ければ味覚は変わる.よって,客観的な味というものは存在しないのではないかと思う.
例えば,ビール.これは飲むときの体調,気分によって味は全く変わる.表面的な味はもちろん変わらない.ただ,雑味が強く感じられることもあれば,素直にうまいと思うこともある.
そのビールを飲むのであれば,風呂でたっぷり汗をかく,喉をカラカラにする,そしてやってきた冷たいビールはとてもうまい.ジョッキの半分くらいをごくごくと飲み干してしまうほどである.
すっぱいビールというのがある.なんのことか.居酒屋でもレストランでも,サーバーの,特に流路の手入れが不十分なのであろうと思うが,酸味と匂いが増しているところがある.こういう店のビールは私は嫌いである.当たってしまうと二杯目からは瓶にする.そして,その店ではもう二度とサーバーの生ビールは飲まない.
ビールは繊細な酒である.特にビールが好きな者はその繊細な味を楽しむ.ヱビスがいいか,プレモルがいいか,アサヒスーパードライがいいか,それは好みである.しかしながらこのとき,好き嫌いが言える人は,以前味わった味を元に発現している.その味が崩れるとそれは残念に他ならない.
繊細な味のものとしていろいろなものがあるが,バリエーションという観点も加えるとやはり蕎麦があげられよう.
蕎麦は地方によっていろいろあるが,ここでは話を簡便にするために江戸蕎麦のいわゆる御三家の話に限定するとしよう.
藪の汁は生かえしで辛く,更科の汁は本かえしで丸いが決して薄味ではない.砂場は店によって違うことが多いが,どちらかというと上品な雰囲気のあるものが多い.
ただし,これはベースの話である.汁そのものはもっともっとバリエーションが出てくる.では,その汁をどうやって食べようか?
私の考え.それは各店の汁の味を記憶できるようになれば,あとは自分の「食べたいもの」,つまりは体調と気分を踏まえて,好きなところへ行けばよろしいということである.
例えば疲れているときは多少の辛い物が欲しくなる.この辛いものが藪の辛さであるのなら,藪へ行けばよい.藪の辛さではなく,更科の甘さと丸みのある汁を欲しているのであれば更科へ行けばよい.
つまりは,欲している店を選べる者が一番幸せではなかろうか?
食べたいと思う汁の味の店へ行って幸せを感じることができる,これが一番幸せであろう.行きたくもない店に行って「あーだ,こーだ」と文句を垂れるよりよっぽど幸せである.
時に,一部の店では汁を好みで混ぜてくれというところもある.これは確かに,客にとっては難しい.ただし,その混ぜ方を間違っても,蕎麦の食い方に熟練した者は,いちいち失敗したと文句は言わないであろう.なぜなら,混ぜるのは客の責任であり,味を確かめながら混ぜたのに混みの味にできなかったのなら,それは答えは大きく二つではないかと思う.一つは自分の好みに全く合わない汁を出している,もしくは自分の好みがわかっていないから混ぜても良い味にならない.
前者であれば,蕎麦のことをわかっている者なら,黙ってその店には,もはや立ち入らない.それが自分のためであるからだ.後者であれば問題である.違う店へ行っても自分の気分に合わなければ文句をつけるということになりかねない.
故藤村和夫氏の本には,そのあたりのことが江戸っ子のさっぱりとした口調で書いてある.通とは「通う人」であるということである.一度言って口に合わなくても,黙ってしばらく通ってみて,その中で自分に合うものを見出せたらよしとする.それが「通う人」だから「通」だと言っている.なにやら騙されたような気分だが,的を射ていると私は思う.
もっと簡単に言おう.「今日はそばが食べたいな」から「今日はxxのxx蕎麦が食べたいな」と思うようになったら,まっすぐにその店に行ってそのそばを食べるべきである.脳と体が欲しているのだから,食べない他にない.
蕎麦は,麺と汁のハーモニーである.汁の味だけでその蕎麦屋の評価をすることは危険であるし,もり汁がうまくても甘汁(椀物の汁)がダメな店もあれば逆もある.その店の一番自分に合う汁が何か?はわからないと,その店でどのそばを頼もうか迷う.知らないときは「知るために」頼む.
料理は気分である.気分と感じる味がフィットするようになると,それは幸福になるであろう.
科学的には体調.体調が悪ければ味覚は変わる.よって,客観的な味というものは存在しないのではないかと思う.
例えば,ビール.これは飲むときの体調,気分によって味は全く変わる.表面的な味はもちろん変わらない.ただ,雑味が強く感じられることもあれば,素直にうまいと思うこともある.
そのビールを飲むのであれば,風呂でたっぷり汗をかく,喉をカラカラにする,そしてやってきた冷たいビールはとてもうまい.ジョッキの半分くらいをごくごくと飲み干してしまうほどである.
すっぱいビールというのがある.なんのことか.居酒屋でもレストランでも,サーバーの,特に流路の手入れが不十分なのであろうと思うが,酸味と匂いが増しているところがある.こういう店のビールは私は嫌いである.当たってしまうと二杯目からは瓶にする.そして,その店ではもう二度とサーバーの生ビールは飲まない.
ビールは繊細な酒である.特にビールが好きな者はその繊細な味を楽しむ.ヱビスがいいか,プレモルがいいか,アサヒスーパードライがいいか,それは好みである.しかしながらこのとき,好き嫌いが言える人は,以前味わった味を元に発現している.その味が崩れるとそれは残念に他ならない.
繊細な味のものとしていろいろなものがあるが,バリエーションという観点も加えるとやはり蕎麦があげられよう.
蕎麦は地方によっていろいろあるが,ここでは話を簡便にするために江戸蕎麦のいわゆる御三家の話に限定するとしよう.
藪の汁は生かえしで辛く,更科の汁は本かえしで丸いが決して薄味ではない.砂場は店によって違うことが多いが,どちらかというと上品な雰囲気のあるものが多い.
ただし,これはベースの話である.汁そのものはもっともっとバリエーションが出てくる.では,その汁をどうやって食べようか?
私の考え.それは各店の汁の味を記憶できるようになれば,あとは自分の「食べたいもの」,つまりは体調と気分を踏まえて,好きなところへ行けばよろしいということである.
例えば疲れているときは多少の辛い物が欲しくなる.この辛いものが藪の辛さであるのなら,藪へ行けばよい.藪の辛さではなく,更科の甘さと丸みのある汁を欲しているのであれば更科へ行けばよい.
つまりは,欲している店を選べる者が一番幸せではなかろうか?
食べたいと思う汁の味の店へ行って幸せを感じることができる,これが一番幸せであろう.行きたくもない店に行って「あーだ,こーだ」と文句を垂れるよりよっぽど幸せである.
時に,一部の店では汁を好みで混ぜてくれというところもある.これは確かに,客にとっては難しい.ただし,その混ぜ方を間違っても,蕎麦の食い方に熟練した者は,いちいち失敗したと文句は言わないであろう.なぜなら,混ぜるのは客の責任であり,味を確かめながら混ぜたのに混みの味にできなかったのなら,それは答えは大きく二つではないかと思う.一つは自分の好みに全く合わない汁を出している,もしくは自分の好みがわかっていないから混ぜても良い味にならない.
前者であれば,蕎麦のことをわかっている者なら,黙ってその店には,もはや立ち入らない.それが自分のためであるからだ.後者であれば問題である.違う店へ行っても自分の気分に合わなければ文句をつけるということになりかねない.
故藤村和夫氏の本には,そのあたりのことが江戸っ子のさっぱりとした口調で書いてある.通とは「通う人」であるということである.一度言って口に合わなくても,黙ってしばらく通ってみて,その中で自分に合うものを見出せたらよしとする.それが「通う人」だから「通」だと言っている.なにやら騙されたような気分だが,的を射ていると私は思う.
もっと簡単に言おう.「今日はそばが食べたいな」から「今日はxxのxx蕎麦が食べたいな」と思うようになったら,まっすぐにその店に行ってそのそばを食べるべきである.脳と体が欲しているのだから,食べない他にない.
蕎麦は,麺と汁のハーモニーである.汁の味だけでその蕎麦屋の評価をすることは危険であるし,もり汁がうまくても甘汁(椀物の汁)がダメな店もあれば逆もある.その店の一番自分に合う汁が何か?はわからないと,その店でどのそばを頼もうか迷う.知らないときは「知るために」頼む.
料理は気分である.気分と感じる味がフィットするようになると,それは幸福になるであろう.
食べ物はどういう風に食べても良いというのは大前提とはいえ,やはり明らかにおいしそうではない食べ方をしても仕方ないとは思う.
例えば,蕎麦.蕎麦は伸びやすい.だからこそ,酒を片手にあんまりちびちびやっているとぶよぶよになった蕎麦を食べることになり,これはいかにもまずそうだ.もり蕎麦ならまだましだが,温かい椀蕎麦はやはりのびるまえにするっと食べてしまうのが良いだろう.
もり蕎麦でも,白い更科ならば適度にほぐしながら蕎麦が引っ付かないようにしてやれば,「水切れ」という状態で楽しむことができる.これはこれで好きな人の食べ方だが(「通」と言ってはならない),おやどの蕎麦は基本的にはゆでたてが一番うまいと思う.
もし酒を片手にゆっくり蕎麦を手繰りたいならば,やはり「抜き」や「蕎麦前」の肴でもって酒を楽しみ,程よいところで「そば」を頼み,それはつるっと手繰ってお勘定.蕎麦を多めに食べたいならば,もり蕎麦などで一枚をまず頼み,それを手繰りながらまたちょうどいいところでもう一枚頼む.気配りのできる店なら,二枚最初から頼んでおいて,「別別に」と言っておけば,このタイミングで出してくれるところもある.
もりまたはせいろでは,「さくら」という盛り方を取っているところもある.上野藪蕎麦などがそうである.「さくら」とは,少な目に盛ることで,もちろん頼めばやってくれるところが多いだろうが,メニューにちゃんと出しているのが上野藪である.
酒を飲むときは「さくら」にしておいて,酒がなくなったが,腹を満たしたいというときには「せいろう(藪の店では,せいろではなく,せいろうと発音するところもある)」をもう一枚頼むということもできるし,蕎麦前で酒を飲んたら結構お腹がいっぱいになってしまったという時にも「さくら」はちょうど良い.
あと,池波正太郎氏も言っているが,江戸前の蕎麦なら,くちゃくちゃといつまでも噛んで食べていてもおいしくないというのはそれはその通りだと思う.
次に寿司.寿司は半可に「通」ぶるのは危険行為だし,魚は奥が深いので,よほどのことがないと素材のことで料理人にかなうことはできない.だからこそ,寿司屋では「おまかせ」が無難であるとも言える.
ただ,回転ずしや庶民的な寿司屋では,お好みで注文することのほうが多いであろう.席に着くなり「トロ」とか「サーモン」と頼む人を見かけることがある.別に好きなものから食べれば良いし,問題もないのだが,もしも,あっさりしたネタから濃いネタへという流れで食べたことがなければ,一度はそのようにして食べてみることをやってみても良いと思う.
最初は,白身の魚であっさりとしたヒラメや,酢でしめたコハダなどから入るのはその意味で理にかなっている.とくに酢でしめたコハダなどは,前菜のごとく,酢が舌の上の雑味を流してくれて,さあ,これから食べる寿司を食うぞと舌を鮮烈にする準備にもなると思う.個人的にはビールかお茶で舌を流してヒラメから入ることが多い.あとはイカ,たこの類.そしてアジなどの青魚系.ガリで口をさっぱりさせたら,貝類,そしてツブツブ系の魚卵.ツブツブ系は口に残るのでしばらくゆっくりと楽しんだらまたガリで流し,それから脂っぽいネタに入る.マグロの赤身なら最初に.そして中トロ.サーモンのときは,赤身の後でサーモン.そしたら残りのビールをごきゅごきゅのんでさっぱりしてから,カッパ巻かおしんこ巻で〆る.食べたりないなと思ったら,いくら巻とか,明太子巻とかそのあたりをカッパの前に挟むと,味も濃いので,食べた気にもなるし腹も満たされる.
これを逆にしたらどうだろうか? ガリでさっぱりできるとはいえ,中トロの味が残ってしまって,白身の魚の味がぼやけてしまうのではないかと思う.トロをたくさん食べたければ,最初に白身かたこあたりを食べて,それからは濃い味のものを並べて食べたほうが良いと思う.ただ,中トロなどを次々頼むと,それは値段はかさむ.
ただこれは自分の食べ方であって,別に人に強要したりしない.知人と出かけてもその人が好きなように食べるのを見ているだけである.人は好き好きだから別にかまわない.ただ,私の食べ方を見て,「へーそういう風にいくんですか」と興味を示す人がいたらそれでよいと思う.
寿司を食べる時に,醤油をべとべとにつけていたり,シャリをぼろぼろに崩してしまっている人がいるが,これはやはり「見た目にうまそう」な食べ方とは言えないだろう.
例えば,蕎麦.蕎麦は伸びやすい.だからこそ,酒を片手にあんまりちびちびやっているとぶよぶよになった蕎麦を食べることになり,これはいかにもまずそうだ.もり蕎麦ならまだましだが,温かい椀蕎麦はやはりのびるまえにするっと食べてしまうのが良いだろう.
もり蕎麦でも,白い更科ならば適度にほぐしながら蕎麦が引っ付かないようにしてやれば,「水切れ」という状態で楽しむことができる.これはこれで好きな人の食べ方だが(「通」と言ってはならない),おやどの蕎麦は基本的にはゆでたてが一番うまいと思う.
もし酒を片手にゆっくり蕎麦を手繰りたいならば,やはり「抜き」や「蕎麦前」の肴でもって酒を楽しみ,程よいところで「そば」を頼み,それはつるっと手繰ってお勘定.蕎麦を多めに食べたいならば,もり蕎麦などで一枚をまず頼み,それを手繰りながらまたちょうどいいところでもう一枚頼む.気配りのできる店なら,二枚最初から頼んでおいて,「別別に」と言っておけば,このタイミングで出してくれるところもある.
もりまたはせいろでは,「さくら」という盛り方を取っているところもある.上野藪蕎麦などがそうである.「さくら」とは,少な目に盛ることで,もちろん頼めばやってくれるところが多いだろうが,メニューにちゃんと出しているのが上野藪である.
酒を飲むときは「さくら」にしておいて,酒がなくなったが,腹を満たしたいというときには「せいろう(藪の店では,せいろではなく,せいろうと発音するところもある)」をもう一枚頼むということもできるし,蕎麦前で酒を飲んたら結構お腹がいっぱいになってしまったという時にも「さくら」はちょうど良い.
あと,池波正太郎氏も言っているが,江戸前の蕎麦なら,くちゃくちゃといつまでも噛んで食べていてもおいしくないというのはそれはその通りだと思う.
次に寿司.寿司は半可に「通」ぶるのは危険行為だし,魚は奥が深いので,よほどのことがないと素材のことで料理人にかなうことはできない.だからこそ,寿司屋では「おまかせ」が無難であるとも言える.
ただ,回転ずしや庶民的な寿司屋では,お好みで注文することのほうが多いであろう.席に着くなり「トロ」とか「サーモン」と頼む人を見かけることがある.別に好きなものから食べれば良いし,問題もないのだが,もしも,あっさりしたネタから濃いネタへという流れで食べたことがなければ,一度はそのようにして食べてみることをやってみても良いと思う.
最初は,白身の魚であっさりとしたヒラメや,酢でしめたコハダなどから入るのはその意味で理にかなっている.とくに酢でしめたコハダなどは,前菜のごとく,酢が舌の上の雑味を流してくれて,さあ,これから食べる寿司を食うぞと舌を鮮烈にする準備にもなると思う.個人的にはビールかお茶で舌を流してヒラメから入ることが多い.あとはイカ,たこの類.そしてアジなどの青魚系.ガリで口をさっぱりさせたら,貝類,そしてツブツブ系の魚卵.ツブツブ系は口に残るのでしばらくゆっくりと楽しんだらまたガリで流し,それから脂っぽいネタに入る.マグロの赤身なら最初に.そして中トロ.サーモンのときは,赤身の後でサーモン.そしたら残りのビールをごきゅごきゅのんでさっぱりしてから,カッパ巻かおしんこ巻で〆る.食べたりないなと思ったら,いくら巻とか,明太子巻とかそのあたりをカッパの前に挟むと,味も濃いので,食べた気にもなるし腹も満たされる.
これを逆にしたらどうだろうか? ガリでさっぱりできるとはいえ,中トロの味が残ってしまって,白身の魚の味がぼやけてしまうのではないかと思う.トロをたくさん食べたければ,最初に白身かたこあたりを食べて,それからは濃い味のものを並べて食べたほうが良いと思う.ただ,中トロなどを次々頼むと,それは値段はかさむ.
ただこれは自分の食べ方であって,別に人に強要したりしない.知人と出かけてもその人が好きなように食べるのを見ているだけである.人は好き好きだから別にかまわない.ただ,私の食べ方を見て,「へーそういう風にいくんですか」と興味を示す人がいたらそれでよいと思う.
寿司を食べる時に,醤油をべとべとにつけていたり,シャリをぼろぼろに崩してしまっている人がいるが,これはやはり「見た目にうまそう」な食べ方とは言えないだろう.
最近の大学では成績評価にGPAという標準化基準を導入しているところが多いのだが,表面的に見ていると,研究室配属など,そのクラスなり学科なりでの相対的評価を考える時にはいいのだが,他の学科,学部,大学の成績と比べるということになったときは少しややこしいのが現状である.
よって現実的には,このGPAというものは,学科内の相対的成績を点数化したものとして解釈されていて,大学院入試や留学の際に提出されられるとはいえ,「この学科で上位の成績なのね」とか「この大学で平均くらいの成績なのですね」という評価のために用いられているということをよく知らねばならない.
GPAの別の判定法として,GPAで低い点数であると進級させないといった基準作りに使おうという意見もある.もとより,日本の大学は入学してしまえば進級は容易いと言われている.この意見には一部語弊があるとは思うが,平均的な意味では,そしてアメリカのトップ大学と比べれば,日本の旧帝大クラスの大学でも,進級基準はやはり甘いであろうとは思う.
大学教育における文化や歴史の違いもあるのと,近年は「アドミッションズポリシー」という「提示」もあるため,進級基準は学科で決めることが多く,講義を担当する教員が個人で「不可」と評価することに大いなる抵抗感,これは学生に対する抵抗感ではなく,学科の中の相対的評価としての抵抗感が生まれることがあるのではなかろうか.
自分が担当している講義から不可の学生がたくさん出たとする.必ず,学科長や学部長,専攻長などから何かしらのことを聞かれるであろうことは安易に予想できる.それより,某大学の医学部で最近あったことのように,マスコミに取り上げられて否定的に報道されたりしたものなら,その大学の中での立場がなくなる可能性だってある.
また,アメリカ式でいうならば,不可判定はF (Failedだという説がある)であり,可判定はDであるところが結構ある.もちろん,A>B>C>Dとランクがあるのである.ここにEがないのはなぜか? 明確な定義は知らないが,俗説には,そこには大きな隔たりがあるのだということや,可と不可を区別するためといった話まである.
これを日本の大学で見てみると,「可/不可」とシラバスに書いてあるところが多い.スラッシュは"or"を意味するので,可または不可である.「ぎりぎりボーダーラインですよ」という意味は,少し賢明な人ならわかるはずである.しかしながら,不可にする基準は書いていないことが多い.
もちろん,不可の基準を書くことは簡単ではない.毎回,一定数は落としますよという意味になるからである.日本の大学は,教員が示す最低限の基準をクリアすれば不可にはしないというところが多い.最低限の基準を作るのは担当教員の責任であると言いながらも,不可にするということに対しては,わりとアレルギーがあったりする.
私が思うに,最低限の努力を形で示した人には,可という形でも成績認定をすればよいだろうとは思う.ただし,最低限の努力の提示のない者に合格を与えることに何の意味があるのであろうか.
そしてすべて可で通ることに対するデメリットは大学にはあまりない.実は私は学部時代は,可で通ればよいと思っていた.それはなぜなら,自分の将来を見越して行うべき勉強というものは自分で行っていたからである.良い成績を取るということに興味はなく,試験前の勉強と言えば,自分の蓄積と,試験範囲との照らし合わせであり,足らないところは自分の力で補てんするというものであった.もちろんずれることはある.そのため,試験の成績が振るわないときは「可」ということが多かった.試験時間を学科の勉強だけに割くということはあまりしなかったのはよくないとは思うが,学科の勉強だけが大学の学問ではないとエラそうなことを思っていた.
このあたりはここではあまり詳しく書けないが,いろいろなことがあったのである.そのため,学科の成績は合格すればよいというもので,将来の研究のために,どういうことを身につけるべきかということを考えながら,いろんな試行錯誤をしていたことは確かである.
話が発散してきてしまった.そろそろ筆をおこう.
よって現実的には,このGPAというものは,学科内の相対的成績を点数化したものとして解釈されていて,大学院入試や留学の際に提出されられるとはいえ,「この学科で上位の成績なのね」とか「この大学で平均くらいの成績なのですね」という評価のために用いられているということをよく知らねばならない.
GPAの別の判定法として,GPAで低い点数であると進級させないといった基準作りに使おうという意見もある.もとより,日本の大学は入学してしまえば進級は容易いと言われている.この意見には一部語弊があるとは思うが,平均的な意味では,そしてアメリカのトップ大学と比べれば,日本の旧帝大クラスの大学でも,進級基準はやはり甘いであろうとは思う.
大学教育における文化や歴史の違いもあるのと,近年は「アドミッションズポリシー」という「提示」もあるため,進級基準は学科で決めることが多く,講義を担当する教員が個人で「不可」と評価することに大いなる抵抗感,これは学生に対する抵抗感ではなく,学科の中の相対的評価としての抵抗感が生まれることがあるのではなかろうか.
自分が担当している講義から不可の学生がたくさん出たとする.必ず,学科長や学部長,専攻長などから何かしらのことを聞かれるであろうことは安易に予想できる.それより,某大学の医学部で最近あったことのように,マスコミに取り上げられて否定的に報道されたりしたものなら,その大学の中での立場がなくなる可能性だってある.
また,アメリカ式でいうならば,不可判定はF (Failedだという説がある)であり,可判定はDであるところが結構ある.もちろん,A>B>C>Dとランクがあるのである.ここにEがないのはなぜか? 明確な定義は知らないが,俗説には,そこには大きな隔たりがあるのだということや,可と不可を区別するためといった話まである.
これを日本の大学で見てみると,「可/不可」とシラバスに書いてあるところが多い.スラッシュは"or"を意味するので,可または不可である.「ぎりぎりボーダーラインですよ」という意味は,少し賢明な人ならわかるはずである.しかしながら,不可にする基準は書いていないことが多い.
もちろん,不可の基準を書くことは簡単ではない.毎回,一定数は落としますよという意味になるからである.日本の大学は,教員が示す最低限の基準をクリアすれば不可にはしないというところが多い.最低限の基準を作るのは担当教員の責任であると言いながらも,不可にするということに対しては,わりとアレルギーがあったりする.
私が思うに,最低限の努力を形で示した人には,可という形でも成績認定をすればよいだろうとは思う.ただし,最低限の努力の提示のない者に合格を与えることに何の意味があるのであろうか.
そしてすべて可で通ることに対するデメリットは大学にはあまりない.実は私は学部時代は,可で通ればよいと思っていた.それはなぜなら,自分の将来を見越して行うべき勉強というものは自分で行っていたからである.良い成績を取るということに興味はなく,試験前の勉強と言えば,自分の蓄積と,試験範囲との照らし合わせであり,足らないところは自分の力で補てんするというものであった.もちろんずれることはある.そのため,試験の成績が振るわないときは「可」ということが多かった.試験時間を学科の勉強だけに割くということはあまりしなかったのはよくないとは思うが,学科の勉強だけが大学の学問ではないとエラそうなことを思っていた.
このあたりはここではあまり詳しく書けないが,いろいろなことがあったのである.そのため,学科の成績は合格すればよいというもので,将来の研究のために,どういうことを身につけるべきかということを考えながら,いろんな試行錯誤をしていたことは確かである.
話が発散してきてしまった.そろそろ筆をおこう.