辞典には載っている。佛教では、釈迦がダルマを説いて、梵語の「ダルマ」を訳したのが「法」で、「法」は(1)存在するもの。(2)存在の法則。と....

① 此の、存在するモノの全ての意味を、「はたらき」との言葉にすれば、「この宇宙は はたらきに因って 生滅を繰り返すことで 安定を継続している。」と言う事になる。此の働きの事を、釈迦は「ダルマ(法)」と謂う。
② 宇宙の働きに気づき、人間の作為を捨てる理・ことを謂って居る。釈迦の「ダルマ・法」
③ 天地自然の営みの遠大な循環、其の様な、循環を起こす宇宙の働きを、釈迦は「ダルマ・法」と謂う。
④ 世の中が求めているのは、天の道、仏の説くダルマ・法である。
⑤ 過去の歴史を見ると、政治とは、権力者と宗教者が結託して、民衆を弾圧し、搾取し続けて来ている。悟った人は、宇宙の仕組み(ダルマ、法、道)の偉大さに気付いているので、人間の無駄な行為を、できるだけ少なくする様に、人々を導く「ブッダ(覚者)」と謂った、宇宙の仕組みの「ダルマ・法」である。
⑥ 釈迦牟尼仏が、見詰めていたモノは生命の源点であり、宇宙の真理の本体である「ダルマ・法」である。
⑦「釈迦」は「ダルマ・法」と謂って、宇宙にはダルマが存在し、それに目覚める事が「ブッダ(佛・覚醒者)」であると説いている。      
⑧「道」とは、中国の老子の概念である道徳が、現代社会にまで、強く影響して伝わっているものである。インドの釈迦の「ダルマ(法)」も同じ様な意味である。
⑨ 釈迦が導き出した答は、「人間も自然の一部であり、他の生物と一体と成って生かされている。」と、謂う理・ことである。宇宙の意思の在り様がダルマ(法)なのである。


                           
① 此の、存在するモノの全ての意味を、「はたらき」との言葉にすれば、「この宇宙は はたらきに因って 生滅を繰り返すことで 安定を継続している。」と言う事になる。此の働きの事を、釈迦は「ダルマ(法)」と謂う。
宇宙と言う言葉には、二つの意味が含まれている。
一つは、何も無い果てしない暗闇の世界である。
もう一つは、ある時始まって、星々や銀河が消滅を繰り返しながら、どんどん広がっている空間である。
何事にも「はじめ」と言うのが有るが、其れは「有・ユウ」の世界の事である。その「有」が始まるのは、何も条件の無い、全くの「無・ム」の世界がなければならない。
其れが、最初の「無」の宇宙である。
私達が、意識を持って存在している此の宇宙は、星しか見えなくとも、星々の隙間も「有」の世界の内に、有る事になるのである。

其の「有」の宇宙の事を、意味づけして考えるのが、「宗教」や「哲学」であり「科学」である。この意味づけは、人間の脳がしているのだが、全ての存在物は意味が有るからこそ、存在をし続けている。それは、遺伝子の仕組みにも現れている。

此の、存在するモノの全ての意味を、「はたらき」との言葉にすれば、「この宇宙は はたらきに因って 生滅を繰り返すことで 安定を継続している。」と言う事になる。
此の働きの事を、中国の老子は「道」と名付け、釈迦は「ダルマ(法)」と呼んでいる。
瞑想や座禅は、此の働きを見つめる為に、自分の思考を止める事にある。
だから、瞑想や座禅も、一つの働きの行為と言えよう。
そして、全ての命は、宇宙の一部分の働きの現れとして、存在することになる。
私達一人一人は、其の一つの働きの現れなのである。

漢字の「命」とは、命令の「命」で、「言いつける・申しつける」の意味であり、「天命・使命」と使う様に、天の働きとして、自分に与えられた役目を表す。                     
                        H12年8月7日
② 宇宙の働きに気づき、人間の作為を捨てる理・ことを謂って居る。釈迦の「ダルマ・法」世の中の「文化・文明」は、殆どが、男性によって創造されて来た。
其の根元的なエネルギーは、男性の「帰巣本能(母親に対するあまえ)」から来ている。
本来、神を信仰すること自体が「あまえ・依存する心」から、発生したものだ。釈迦と老子は、其々「ダルマ・法」と「タオ・道」と言う、宇宙の働きに気づき、人間の作為を捨てる理・ことを謂って居る。「意識の基点」よりH12・11・16
http://blog.livedoor.jp/jitekiodo/archives/55923722.html
③ 天地自然の営みの遠大な循環、其の様な、循環を起こす宇宙の働きを、釈迦は「ダルマ・法」と謂う。
人間は、自分を認識する時に、物体や現象として形に成った物を捉えないと、認識できない仕組みに成っている。
その認識方法として、様々な手段が有るが、代表的なものが、自分の立場を意識する事と、心(意)を向ける対象を、確定する事である。
幼児の間は、立場も無く、意識の対象は母親だけなので、自分と言う認識は未だ出来ていない。
漢字では、未熟なものを「小人」と呼び、「大人」とは別けて呼んでいた。
「オトナ」とは、古くは「オテナ」であり、さらに「オテナ」は「オキナ(翁)」からきている。
「翁・おきな」とは、精神的にも、肉体的にも、完成した人間を示す言葉である。
だから、翁が「オトナ」と、言葉は変化しても、同じ様に精神的にも、肉体的にも、完成された人間と言う意味が有るのだ。
自己確立の出来た大人に成ると、信仰の対象として、すがりつく御本尊を必要としないので、一見すると、無宗教の様な人間に見える。
しかし、本当に神仏を理解した人は、宇宙の本体、真理を体験しているので、其の儘、自然体に「神惟、三昧、サマディ、悠々自適」に生活しており、立場や対象物を必要としないのである。
普通の人は、そう言う状態に到るまでの段階として、仏像や神具を必要とするのである。
自分で、一番大事な物体を、心向ける対象として奉る事で、自分の「心・おもい(意)」を対象物に縛り付け、精神の安定を図るのである。現在のおおかたの宗教は、この様な状況にある。
一方、縋りつく対象が変わり、紙幣、預金通帳、株券などが、心を向ける対象物となれば、経済活動にのみに心を縛り付ける事になる。其の様な人達は、金の為にだけ、神仏に祈願している事に成るである。これでは、神仏もたまったものではないだろう。
その人達は、金を失うと、心の支えを失うので、そう成った時には、神仏を逆恨みする事に成る。
この逆恨みは、心を向ける対象を、間違っている事が根本にある。
また、人間社会の地位や立場にしがみ付いている人も、社会に変動があれば、一瞬にして、其の立場は消えてしまう様なものだから、人間が創り上げた物・対象にしがみ付いているのは、間違っている理・ことに成るのだ。
では、どうしたら良いのか。
仏像を安置している寺院や、神を祭るっている神社の、信者と言う立場をとるのも一つの手ではあるが、形有る物は、永遠に存在するわけではないし、その維持の為に、心を悩ませる結果となり、あまり良い方法ではない。
其処で、インドの釈迦牟尼佛の教えに目を向けて見ると、釈迦は、物を心の対象とするのではなく、大自然の働きを信じ、自分がその一部である理・ことを、認識しなさいと教えている。其れは、この世に実在する、此の自分の肉体こそ、天地自然の働きの現れであるから、自分の肉体をよく保ちなさいと謂う理・ことである。
其れが、精進するという事である。
釈迦と同じ理を、老子も、イエスキリストも謂っている。
つまり、天地自然の内に立つ、自分の心が何を想っているかという、自分の其の心にこそ、意識を向けなさいと言う理・ことなのだ。
子供の時は、母親と食物の事。成長したら異性の事。親になったら子供の事。老いに至ったら、死の事が心を捉える。
是は、天地自然の営みの遠大な循環作用だ。
其の様な、循環を起こす宇宙の働きを、釈迦は「ダルマ・法」と謂い、老子は「タオ・道」と謂い、イエスは「永遠のいのち」と謂ったのである。
我々は、心・意識を向ける対象を、此の大自然の変わらぬ営みに、置くべきなのである。
特に日本は、四季の移り変わりが素晴らしい国である。
だからこそ、世界に類を見ない和歌の世界が、日本に生まれたのである。
日本の和歌の世界こそ、自然を前にして立つ自分の立場を明確にし、意識の対象を、自然に向かわせてくれるモノである。
その結果として、心象風景を言葉として、表現できるのである。
その、自然を見る自分の目線こそが、日本の伝統なのである。
其の目線こそ、「意識の基点」と名付けて、良いのではないだろうか。


④ 世の中が求めているのは、天の道、仏の説くダルマ・法である。
其れは、「洗胃(心を改めるの意)」をした人が、自分の體に問い掛けて、その答えを人に「謂う」しかないのである。
人間の起こす争い事は、人間の欲望が起すもので、天の働きである「道」とは明らかに外れている。
本来、土地の境界線は人間が決めたものであって、地球には境界線など無い。金銭にしても、人間が便宜上決めた約束事であって、紙幣はただの紙切れにすぎないのである。
人間が決めた事は、宇宙の法や道理ではないのである。
私の謂う「聆く」は、他人の話す事を耳にする「聞く」、「聴く」、ではなく、神に「聆く」事である。
神に「聆く」とは、自分の疑問に対して、自分の心身の中から、自ずと浮かび上がってくる念いである。
其れは、此の身の60兆個の細胞が統合されて、生み出されてくる答えなのである。
其れを、別の言い方をすれば、直感とか「第六感・シックスセンス」の働きである。
その答えは、人間が決めた法律の答えとは違って当然であり、それが正しいかどうかは、長期的に見ていれば、はっきりと正しい事が分かる。
http://blog.livedoor.jp/jitekiodo/archives/55923806.html
釈迦仏陀が説いた訓え 悟る為には、寺院を所有したり、蝋燭や線香を立てたり、経を唱える事、護摩壇を築いて火を拝する事等の行為を止めさせたのである。
全ての行為を止めて、宇宙の働きである「ダルマ・法」に目覚める事が、釈迦仏陀が説いた訓えである。


⑤ 過去の歴史を見ると、政治とは、権力者と宗教者が結託して、民衆を弾圧し、搾取し続けて来ている。悟った人は、宇宙の仕組み(ダルマ、法、道)の偉大さに気付いているので、人間の無駄な行為を、できるだけ少なくする様に、人々を導く「ブッダ(覚者)」と謂った、宇宙の仕組みの「ダルマ・法」である。

「もとめる」と伝えてくる神霊が住む間は、誰かが「神魂の思頼・みたまのふゆ」を受け続け、その伝統は続いて行くだろう。
現代を、生きている我々にも、元始の謎を知りたいとの本能が有る。
其れに、人間は「大日如来」とか「阿弥陀佛」とか「タオ・道」「ダルマ・法」と名付けて、自分の心の源郷を求め続けている。
仏陀の第三の目や、ルシフェルの目とかは、私達の意識の始まりを、表現する言葉なのである。
「もとめる」とは、日本語の本当の意味は、元気の「元」と同じく、「元の目(意識)」を求める意味ではないのだろうか。
元始の目こそ、宇宙の始まりの意識の本体なのだ。
インドの釈迦仏陀は、その意識に目覚めた者を「ブッダ(覚者)」と謂った。
旧約聖書には「始めに 言葉ありき 言葉は神なりき」と有る。
我々人類が、「言葉(真言・マントラ)」の意味を正しく知ろうとするとき、元始の響きが聞こえて来る。その言葉の広がりが、此の日本では、和歌の世界と成って伝わって来たのである。
悟った人は、宇宙の仕組み(ダルマ、法、道)の偉大さに気付いているので、人間の行為を、できるだけ少なくする様に、人々を導こうとするのである。
処が、支配者や、権力者は、経済が中心的考え方なので、できるだけ多くの物資を動かそうとする。
その為に、多くの人々を、使役しようと考えるのである。
過去の歴史を見ると、政治とは、権力者と宗教者が結託して、民衆を弾圧し、搾取し続けて来ている。
だから、その結果、真理は表舞台から消され、民衆の中に、童謡の方法(かたち)で隠され伝えられて来たのだろう。http://blog.livedoor.jp/jitekiodo/archives/55924134.html




⑥ 釈迦牟尼仏が、見詰めていたモノは生命の源点であり、宇宙の真理の本体である「ダルマ・法」である。

人間は、目が見える者であれば、24時間365日物を見続けているが、それは「見詰める」ではなく、物が目に映っているだけの現象であり、意識の表面を、ただ通過しているだけの事である。
科学者は、理論を組み、実験を繰り返すので、物を見詰めていると言えるだろう。そうして、科学を、此処まで発展させて来たのだ。
処が、精神的世界は本来の姿を失い、建物や金銀に目を奪われ、真実を見詰める者が居なくなって来た。
寺にしても、釈迦の姿を仏像にして飾り、仏像は毎日見ているが、当の釈迦が見詰めていたモノを、見詰めようとする者は少ない。
釈迦牟尼仏が、見詰めていたモノは生命の源点であり、宇宙の真理の本体である「ダルマ・法」である。
釈迦は、目に見えている現象を通して、目に見えない物の、奥に潜む働きを頑として、見つめ続けたのである。
穴が開くほど見詰めて、終・ついには、宇宙の時空に穴を開け、三世(過去・現在・未来)に通じる、光のトンネルを創ってしまったのである。
見詰めると言う作業は、単に、物の発する光の情報を、取り込む事だけではなく、宇宙の存在に対して、影響を与える事に繋がる行為なのである。
そんな事が、どうして可能なのだろうか。
私達の意識は、目の器官が出来てから、発生したものではなく、目の器官が出来る前から、具わっていたものである。
38億年程前に、最初の生物は、岩石を利用して有機物を生産し、生きていた理・ことが、科学者の努力で発見されている。其の、最初の微生物に、意思が有ったと考えれば、私達の生命には、遺伝子の発生と共に意思が発生し、遺伝子の複雑化と並行して、意識が組み上がって来たと言えるだろう。
インドの釈迦が、三世の情報に目覚めて、全ての生き物には、共通の「いのち」が存在する事に気付いたのは、自分の體・からだの中の情報が、38億年前の原始細胞にまで、繋がっている理に気付いたからである。
文字も無く、未だ言葉も無い古代世界に、「生きる」と言う存在意思だけが存在し、現在まで、生物は悠久の時間を掛けて、其の形象を変化させて来た。
其れ等を支えて来た「モノ」は、現在・いまも、私し達の身の中に、永々と生き続けている原始細胞である。
旧約聖書にも「神は 始めに 自分に似せて 粘土で 人を 創造した」と記されている。
其の事からすれば、釈迦以前にも、生命の始まりの舞台は、「粘土(珪素とアルミの化合物)」の海であり、岩石が溶解したミネラルの水溜りから、命が発生した理・ことを知っていた事に成る。

中国の、西遊記に登場する孫悟空も、岩から産れた事にされているのは、作者に、同じ考えが有ったからであろう。
旧約聖書には、「始めに 言葉有りき 言葉は神なりき 神の名は72」と載っているが、言葉とは人間の意識の事であり、意識が72に、働くと表現したものであろう。
孫悟空も72般変化の術を使って、玄奘三蔵を助けたとある。
古の人々が、物事(森羅万象の象)を見詰めて、持ち返ったものは、三世を超える意識であり、言葉の発生の秘密と、72の枠組みに付いての理・ことわりである。
永遠に瞑目し、物を超えた世界を、見詰め続けるブッダの世界こそ、老子の謂う「道・」タオを行じる者の姿であろう。                            平成15年3月13日http://blog.livedoor.jp/jitekiodo/archives/55924255.html




⑦「釈迦」は「ダルマ・法」と謂って、宇宙にはダルマが存在し、それに目覚める事が「ブッダ(佛・覚醒者)」であると説いている。
過去の人達が、一番大事とした「文・あや」は、中国の孔子は「恕・ジョ」で、老子は「道・タオ・トウ」、インドの釈迦は「法・ダルマ」で、イエスは「愛・アガペー」であると成るだろうか。

「孔子」は、人間の生き方を説いたので、弟子に、一番大事な「意・おもい・文」を問われた時に、「恕」であると答えたとされている。
「恕」は「①おもいやり ②ゆるすこと」と 載っている。 広辞苑
http://blog.livedoor.jp/jitekiodo/archives/55925067.html
人間の體も この希望が無くなってしまえば、朝に目覚める事も無く、心臓が鼓動し、肺が呼吸する事も止まってしまうだろう。
生あるものが、生あるものとして存在するのは、この性その物の、力に因るものである。
性そのものが、陰陽の働きと成って、互いを求め合い、引き合って生の運動を起しているのだ。
 その事の為に 花は 美しく咲き
小鳥は 美しく身を飾って 囀り
鹿や 牛や 山羊は 角を大きくし
猿は 手足を発達させ
人間は 脳を大きくして来た
人間が、言葉を話し、文字を書き、絵を画き、歌を唄うのも、皆この働きが本に成っている。
 インドの釈迦が説いたダルマ(法)とは、生命の源となっている「いのちのみなもと」の働きなのだ。http://blog.livedoor.jp/jitekiodo/archives/55924323.html

⑧「道」とは、中国の老子の概念である道徳が、現代社会にまで、強く影響して伝わっているものである。インドの釈迦の「ダルマ(法)」も同じ様な意味である。
老子の謂う「道・タオ・トウ」とは、
「道沖而用之或不盈。淵兮似物之宗。挫其粉、和其光、同其塵。湛兮似或存。吾不知誰之子。象帝之先。」と 道徳経にある。

奥平卓氏の訳によれば、「道」はうつろで「無」としか言いようのない物であるが、そのはたらきは無限である。深遠で、万物はその奥底から湧き出るかに見える。
限定せず、限定されず、すべての対立を超越する。
万物を包摂し、万物と一体である。
漠としてあるかなきかの存在である。
「道」は何から生じた物でもない。
それは万物を主宰する 力の根元としかいえない。
(徳間書店・中国の思想老子・列子)より。
佛教では、釈迦がダルマを説いて、梵語の「ダルマ」を訳したのが「法」で、「法」は(1)存在するもの。(2)存在の法則。と 辞典には載っている。
中国の老子も、インドの釈迦も、同じ様に、人の目には直接見えない、宇宙の法則が存在する理を教えているのである。
人間は、自分の浅はかな知識を棄てて、宇宙の大きな法則を理解して、其の道・法に従って生きる事が、「達人」であり「ブッダ(佛)」なのである。
http://blog.livedoor.jp/jitekiodo/archives/55925132.html
人間が、計り知り得ない程の、宇宙の根源の光りや愛である世界を、「阿弥陀・アミターバ・アミターユス(無量光・無量寿)」として説明され、今日に至っている。
あらゆるモノが、自分を中心として流れて行く。
水も、空気も、空も、雲も、自分を中心として流れ、月や太陽、それに星さえ、自分の為に運動しているのだ。
其処には、だた「今」という瞬間的な「トキ」と、全体的な永遠性の「トキ」しか無く、途中を刻む時計的な時間は無い。
60分とか、24時間とか、昼夜とかの区別も無く成る。
まるで、身体の芯奥の自律神経だけが、生き残っている様な感じである。
植物的な神経だけが生き残って、自然のエネルギーと、交わっているだけなのだ。
そう成る事で、草木や虫達の気持ちに通じ、永遠の生命プログラムを、自分のモノとする事が出来る。

其れを、2600年前のインドの釈迦も、体験したのだろう。
全ての生命は繋がっており、同じ「ダルマ・法」の本で、輪廻をしているのである。
釈迦の視た世界こそ、神の世界である。
我々人間は、西方浄土に意識を向ける事や、仏像や十字架から目を外し、自由なセンサーを、取り戻さなければならないのだ。http://blog.livedoor.jp/jitekiodo/archives/55924407.html





⑨ 釈迦が導き出した答は、「人間も自然の一部であり、他の生物と一体と成って生かされている。」と、謂う理・ことである。宇宙の意思の在り様がダルマ(法)なのである。

釈迦が導き出した答は、「人間も自然の一部であり、他の生物と一体と成って生かされている。」と、謂う理・ことである。
釈迦の謂うダルマ(法)と、老子の謂うタオ(道)は、人間の霊の話ではなく、宇宙の意思の在り様なのである。
其の、宇宙の意思と合体する事が「成仏」であり、ブッダと成る事である。
釈迦は、「私が 情報の管理を済ましたので、私の振動波は 向こう500年残る。しかし、その後1000年は 教えだけは残るが、波動は消えて残らない。更に、其の後1000年は正しい教えも消えて 無明の時代が続き、其の時に 弟子であった弥勒・マイトレイヤー(有情・慈悲の意味)が下生し、衆生の明かりと成るだろう。」と 謂ったと伝えられている
http://blog.livedoor.jp/jitekiodo/archives/55925352.html
「解脱」は、自分の自我が消えて、宇宙のダルマ・法に触れ、全ての智慧を体得し、人間の存在を理解することである。
http://blog.livedoor.jp/jitekiodo/archives/55925354.html
追記 当日19:21分ダルマ・法・真理との 「長い旅だった」 


のブログに真理が加えられていました。お釈迦様が仏陀になり宇宙の源の真理を解いた言葉がダルマ・法とした、との方が分かりやすいですね(*^^*)すいませんm(_ _)m
コトバンク ダルマ法の意味
https://kotobank.jp/word/%E3%83%80%E3%83%AB%E3%83%9E-94747
ウィキペディア 法(仏教)意味
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95_(%E4%BB%8F%E6%95%99)