清盛ep.48
大詰めに至って回想がやや多いな、というのはともかく…
今回は
コントラスト、対照的手法を意図して多用してるが、それがどういうスタンスからなのかが何か理解しづらかった。
前回、出陣の日取りが悪いという意見を退けた惟盛は、結果ダメダメな総大将になったのに、
頼朝は同じ台詞で武将達を感服させ、新しい指導者として立つ。
この差は一体……?
単に没落してゆく平家は何をしても負のスパイラルにはまる、てことなのか?
また、後半では
「まことの武士とは」
その頼朝の問題設定に、若き清盛の、神輿を射抜き鳥羽院に幻の矢を放つ回想シーンが登場するが、
その直後
あたかもそれらを戯画化するかのように
南都と大仏を焼き払ったことを誇らしげに語る重衡と
絶句する清盛が描かれる。
両者の行為は、古きもの、旧世代を打ち払う点で本質的に同じはずだ。
だからこそ清盛は「ようやった」と言うしかなかったわけだ(他にどういいようがある?)。
「天は平家を見放した」
この台詞はやはり清盛のものであり
(それを聞きたくはなかった、て気持ちは変わらない)
どうやら彼は平家滅亡の運命を覚悟したものらしい。
けれども
それが平家物語的な、人間個人にはどうしようもない運命への歎きではないと、
ニーチェの「運命愛」
――こんなものが人生か!? 然り、もう一度!
永劫回帰の下、最低のカスのような人生を果てしなくくりかえすとしても、それを再びといわず何度でも欲する勇気を以て、この生を生きる
清盛の「覚悟」はそういうものだと
独断的に考えてはいるんだが……ね。