継続は力なり。 | 松竹芸能師匠たちのオフィシャルブログ『アラ還ブログ』Powered by Ameba

継続は力なり。

海原はるかです。

久しぶりに今までの芸人人生と人間人生を振り返って少し書かせて頂きますので宜しくお願いします!

今年で75年になりますが元気で健康には結構恵まれていると思いますが、もちろん努力もしています。若い頃は性格が神経質なので(笑うポイントでは無いですから)よく胃潰瘍や十二指腸潰瘍を患って時には入院した事も有る位なんです。やはり若さの勢いで突入した芸能界でしたが、右も左も分からずウロウロしていた時期が多々有りました。

若手の頃は所謂(いわゆる)青春時代ですから普通に恋をしてフラれ、また恋をする恋愛病を繰り返していた時期がありました。
好きな人ができたらその人を笑顔にする為に漫才を頑張ろうと思う少し単純だけど憎めない人間だったと勝手に自己分析しております。自分でも不思議ですが、好きになる女性はオール九州出身の人ばかりなので相方かなた君にはツッコミを入れられてました。
と言いますのは当時の漫才は地方訛りがある芸人は絶対ダメの時代でしたから中々熊本弁や熊本訛りの抜け切れない僕のアクセントを矯正して少しでも大阪弁に近づけようとしているのになぜか九州地方のアクセントのある女性と付き合ったら、また熊本弁が出てしまうの厳しいコメントでした。
言われたら返す言葉は有りませんし、相方のコメントは100%間違い無いのですが、熊本に生まれ18年を過ごした熊本人の肥後もっこす的な性格にブレーキを掛ける事ができませんでした。なぜか出身地が九州地方の◯◯と聞いただけで当時は気持ちが落ち着きました。

一度お浜師匠の御主人のご紹介で占い師の方に我々コンビの芸人としての将来性と言いますか正直売れるか売れないか?をお尋ねした事がありました。答えは(人生後半になって良くなるでしょう)のコメントは完璧に記憶していますが、ズバリ正解でしたね。今でこそ当たってたと言えますが、なにかしら漠然とした言い方でしたからあまり信用していませんでしたが、大当たりの二重丸となりました。

弟子時代は師匠の御主人が始めた(お浜・小浜の海原家具)の手伝いが弟子修行みたいで運転免許証を持っていた相方は時々師匠の車を運転してTV番組のスタジオに行っていましたが、免許証を持って無い僕は家具従業員ばかりの毎日でした。
全く腐る事無く夢を見て頑張っておりました。
有難い事に(海原はるか・かなた)として1970年大阪万博の8月にデビューして、人に助けられプロダクションの皆さんの御尽力で仕事には恵まれて芸人一筋で生活出来ているのは本当に有難い事と感謝しております。あと何年現役芸人として角座舞台に立ち、他色々なジャンルの仕事ができるのかは髪のみぞではなく、神のみぞ知るですが、毎日に感謝して前向きに笑顔で進めたら有難いと思う海原はるかでした。

写真は角座楽屋でパピヨンズさんと太神楽の豊来家板里君と皆さんでパチリ。