人生を振り返ってパート3。 | 松竹芸能師匠たちのオフィシャルブログ『アラ還ブログ』Powered by Ameba

人生を振り返ってパート3。

海原はるかです。

先日書かせて頂いたパート2に続く第三弾の人生振り返ってを思い出しながら書かせて頂きます。思い出しながらと言いますのは余りに古い記憶を紐解いてますので、記憶が曖昧な箇所が多々ありますが御容赦下さい。

新聞社に手紙を送って芸能界の取っ掛かりが有れば有り難いと漠然とした気持ちでしたが、あまりに早いラッキーチャンスに弟と小躍りして喜んだ記憶だけは鮮明に残ってますが、両親の気持ちは本当に複雑やったと思います。弟もそうですが僕も熊本県立済々黌高等学校という進学校で学んでましたので、大学受験して大学生になるのが当然と考えていたと思います。芸能界の夢は両親の気持ちを裏切ってしまいました。でも芸能界で大成功して両親に恩返ししたいなんて事は全く考えず、我が道をただひたすらに走っている状況だったと思います。

熊本駅から大阪に向かう時には勿論両親と弟が見送ってくれましたが、苦難の大阪人生スタートとなりました。大阪駅に到着後は読売新聞の若手社員の方に出迎えて頂き、車で当時日本橋に有りました読売新聞難波直配所に連れて行って頂き直配所の所長御夫妻ほか、直配所の従業員の方々に御挨拶して先輩従業員の方の案内で個人の荷物を入れるロッカーや寝起きするニ段ベッドを教えて頂きました。しかし今思いましたらプライベート空間は全く有りませんでした。

直配所に到着した日から新聞配達少年としての仕事が始まりましたが、全く分からない業界ですから先輩の皆さんに色々教えて頂きながら仕事を覚えております。未知の世界ですが、芸能界へのチャンスと思えば全ての仕事が楽しくなって来ました。

毎日の起床は早朝3時前位に所長さんの怒鳴り声で起こされ、朝刊到着を待ち到着後は梱包された新聞を区域別に枚数を数えて折り込み広告を手作業で入れていきます。毎日同じ繰り返しの新聞作業ですから自然に色々な事を覚えて行き、半人前から少し一人前の新聞配達青年に育ってますが、夢は芸能界デビューですから読売新聞本社の方の御紹介で入学できました。明蝶芸術学院の夕方からの授業も夕刊配達終わりで頑張っておりました。

芸能学校の二年間の授業で最初の一年は基礎訓練と言いまして発生練習、日本舞踊、バレエ、他思い出せない位の地味な事の繰り返しでしたが、当時の先生に厳しく注意され努力を促されたのは熊本訛りの矯正でした。時は漫才師になるつもりは全く無く役者志望でしたから僕の余りにひどい熊本弁を大阪弁にする事は至難の技でした。先生に言われたアドバイスは最初は標準語を覚えましょうでした。標準語を覚えるにしても覚え方が全く分かりませんので、先生にお聞きしたらとにかくラジオを常に持ってNHKのニュースを聴いて耳から覚えましょうでした。即実行で時間がある時にはラジオからオンエアーされるニュースを聴きながら標準語記憶にチャレンジしておりました。
時進行で少しずつ仲良くなって来た芸能学校の生徒さんで大阪生まれの大阪育ちの方達と積極的に話をして熊本訛りを意識して使わないように心がけておりました。少しずつですが熊本訛りから標準語もどきの言葉を喋りながら色々な方に助けて頂いての芸能学校生活でした。

二年目に入ると基礎訓練から漫才科と演劇科に教室が分かれて僕は勿論演劇科の生徒となりました。芝居台本を頂き、講師の先生も現役の俳優さんや時には学院長の曾我廼家明蝶先生も教壇に立たれて熱き授業となりました。そして最後に演劇科の生徒全員出演の卒業記念公演をホールを貸し切って演じて皆さん卒業となりましたが、卒業と同時に芸能界デビューとはなりませんでした。

写真は新聞配達青年の時に配達エリアの読者の皆様に御挨拶文と一緒に掲載させて頂きました18歳の僕です。