思い出すのに苦労してます。 | 松竹芸能師匠たちのオフィシャルブログ『アラ還ブログ』Powered by Ameba

思い出すのに苦労してます。

海原はるかです。

今日の大阪の降水確率は30%前後なので折り畳み傘でOKかなぁと思って自宅を出たのは昼前でした、出る前にKBS京都の原日出子さんの番組を11時25分まで楽しんで国分太一さんの番組を5分見て納得です。

今日はジムでトレーニング師匠にベンチプレスを御指導して頂く日ですから早めにジムに入館!体温チェック、消毒、マスク着用、会話は必要以外は厳禁です。

トレーニング方法は最近は重たい方から始めます(47、5キロ 45キロ 40キロ)時間にして約45分で終了で気持ちスッキリです、トレーニング終わりで自宅で又々弟子時代の記憶を紐解いてますが何故か漠然としか思い出せない箇所もありますので読者の皆様御理解ください。

海原家具の手伝いをしながらの弟子修行でしたが西尾君が入門してからは家具の配達は二人一緒に動くようになって色々コミニケーションを取るのには助かりました、当時の二人は僕は本当に垢抜けない漫才の弟子でしたが西尾君は僕から見たら大人っぽい感じて頼りになる兄貴みたいな存在で➕間違い無く男前でした。

動きも素早く鈍臭い僕とは大違いでしたが何故か皆さんには二人共可愛がって頂いたのは有り難かったですね、家具手伝いをしながら当時の師匠が所属されてました芸能プロダクション(その頃の看板芸人さんは、海原お浜小浜 若井はんじ けんじ 横山ホットブラザーズ)の社長から君らは早く舞台デビューしないと余り若く無いんやからと言われビックリしたのは覚えております(今思えば西尾君は別にして僕は熊本訛りはひどく私服はオシャレ感0でしたので一番芸能の世界とは程遠い存在に見えオッさんの匂いがしてたのかも知れません)それでも少しづつではありますが漫才師としてデビューする環境が整ってきました、デビュー舞台は当時師匠や会社所属の芸人さんが出演してましたコマモダン寄席(別名、トップホットシアター)で社長に最初に言われたのは芸名を何と言う名前にするかでした。

勿論師匠の名前の海原が付くのは当然なんですが下のコンビ名は中々浮かんで来ませんでした、筆頭弟子が海原かける めぐる、次が海原千里万里でしたので師匠も海原にふさわしい名前を考えて頂きました。

候補に上がったのが(ヨットハーバー)他数点ありましたが師匠の提案で海原やから、遥か彼方がピッタリやで(海原はるか かなた)の芸名の誕生となり決定しましたが細かいプロセスは思い出せませんのでご了承ください。

写真は久しぶりに甘い誘惑に負けてしまいました!