迷い悩みました。 | 松竹芸能師匠たちのオフィシャルブログ『アラ還ブログ』Powered by Ameba

迷い悩みました。

海原はるかです。

大阪での芸能の世界で生きていく為の二刀流(新聞配達少年と明蝶芸術学院生)人生も終わろうとしております、俳優小沢昭一さんの弟子になる事は出来ませんでしたが正直余りショックは無かったですね、そんなに甘い世界では無い事は最初から理解してましたし夢を追いかけ弟の知恵と機転と両親の理解で大阪に足を運んで二年弱ですから!

二年の歳月が流れた頃に思ったのは自分が芸能の世界でどうなるかは本当に⁇でしたが大都会大阪の土地で一人の人間として生きて行く自信は出来ました(ですから熊本に帰りたいとは全く考えませんでした)

学院生の頃は芸能人は兎に角目立ってナンボの感覚で難波にある学院に通う時も新聞配達用のボロボロの自転車に乗って行き足元は靴下を履かず所謂雪駄(せった)で授業を受け先生や同級生の失笑を買い良く注意されました。

ただ自分で言うのも何ですが注意され間違ってると感じたら即訂正出来ましたので結構色々な人に好かれました、役者とて何が出来るかと問われたら返事が出来ませんし大阪の二年間で知り合った色々なジャンルの人(何故か広告代理店の人や作家さん他にも芸能と無関係な人も多々居ました)皆さんが共通して僕にアドバイスくれたのは、大阪で役者だけでメシを食うのは大変や良く考えてみなさい大阪は笑いの街や!まず笑い(漫才)で頑張って結果を出したらご褒美みたいな形で役者の仕事も来るから最初は漫才で頑張りの意見でした。

皆さんの意見に納得も得心も出来ましたが学院の時に漫才科で勉強した訳では無いので漫才のマの字も分かりませんし迷いましたが、僕を大阪に来るチャンスを作って頂いた読売新聞の社員さんの知人で広告代理店に勤務されてる方を紹介して頂きました。

何とその方が僕が漫才師になるチャンスを作ってくれたのです(何故か人に助けられる人生を歩んでます)その方と一緒に所謂芸能プロダクションの社長さんに会いに行きました、大きなプロダクションではありませんでしたが所属してる漫才師の方は余り漫才に興味の無かった僕でも知ってる漫才師の方がいらっしゃいました(若井はんじ  けんじ、横山ホットブラザーズ、海原お浜 小浜)そして一緒に同行して頂いた広告代理店の方と一緒に社長さんの話を聞く事になりました。

が社長さん曰く君は完璧な熊本の田舎者の顔やから熊本に帰って百姓した方がいいよと全く相手にしてくれませんでした。

そこで二年間新聞配達少年として頑張った和泉秀一君の人生に対する粘りを発揮することになりました、写真は今年は生駒の知人に送って頂いた宝山寺さんのお札をパチリ!