矢張り興奮気味でした。 | 松竹芸能師匠たちのオフィシャルブログ『アラ還ブログ』Powered by Ameba

矢張り興奮気味でした。

海原はるかです。

流石に昨夜は少し興奮気味でなかなか眠れませんでした、今の御時世ですから我が家に知人や友人に来て頂き飲めや歌えの大騒ぎをした訳でもなく一人黙々と73歳になった瞬間を味わっている一時に至福の幸せを感じてました。

少しオーバーな言い方をすればこの世に生まれて73年間の時間を色々な人と関わりながら生き続ける事が出来たのです、熊本で当時銀行員の父と元教師の母親の間に生まれた長男坊で父親の名前の一文字(秀雄)を頂き秀一と命名されたと聞きました。

ある意味単純というと少し語弊がありますが秀雄の一番目の子供やからと分かりやすいですし、僕も自分の名前は大好きで誇りも持っております。

本当に幼い頃の事は正直記憶に残ってないのですが覚えているのは幼稚園の頃の事は微妙に、兎に角元気な子供で幼稚園から帰る時でも真っ直ぐ家に帰らず近所の大きな水源地の八景水谷(はけみや)公園で暗くなるまで遊んで両親を心配させた記憶は鮮明に覚えてます。

小学校の6年間は良く学び良く遊びの元気な子供でしたし結構クラスメートや先生にも人気があり6年生の時には児童会の会長を務めました、そして強烈な思い出が一つあります!

それは熊本の小学校の児童会の集まりがあり色々なテーマで皆さんと話し合いをした時に何故か僕が進行役の司会を務め当時のテレビニュース(今でもオンエアーされてます、熊日ニュース)に僕の進行してます顔がアップで映し出され明くる日の小学校で大騒ぎになり初めてテレビの影響力の凄さを実感しました。

でもその時には芸人になりたいとか芸能界に憧れる気持ちは全くありませんでした、唯言えるのは当時から人前で話したり仲間達とワイワイと喋り合うのは大好きな子供でした。

小学校から中学校に入学しても人付き合いの良い友達を大切にする性格に磨きがかかって所謂(いわゆる)人気者になってました、小学校の時は児童会でしたが中学校の時は生徒会に名称が変わりましたが矢張りと言いますか当然のごとく生徒会の会長に皆さんに推薦されて三年間務めさせて頂きました。

その後も色々な思い出がありますが次回に書かせて頂きますね、写真は階段ウォーキングの時になるべく汗をかいて微妙な減量に頑張ってます姿をマンションのクリーンスタッフさんにお願いしてパチリ!です。