【注意】
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・歴史には諸説あります
今回から「ししけんの歴史talk」と題しまして僕が歴史の面白さを語るブログを始めたいと思います
(まあ実際にはモタスポの開幕が見込めない中で開幕と同時に上げる予定だったミニカーブログが上げられなくなったという事情もあるんですけどね)
さて、記念すべき第1回のテーマはズバリ「大化改新」です‼︎
「専制政治を行なっていた蘇我氏を中大兄皇子(=のち天智天皇)と中臣鎌足がボコして天皇中心の国づくりを進めた」というストーリーは小学生の社会でも勉強する内容だと思います
しかし
この日本史史上最も有名な事件の1つと言っても過言ではない大化改新がウソだとしたら、皆さんどう思いますか?
今回はそんな話をしていきたいと思います
〈目次〉
※数字の部分を押してもその章には飛びません
1. そもそも大化改新とは?-乙巳の変と大化改新-
2.改新の詔とは?
3.改新の詔書き換え疑惑 -郡評論争とは?-
4.大化改新は嘘っぱちか
1. そもそも大化改新とは?-乙巳の変と大化改新-
冒頭でも述べましたが皆さんの多くが思っている大化改新のストーリーは、「中大兄皇子&中臣鎌足が蘇我氏をぶっ倒す‼︎」というものではないでしょうか?
でも実際にはこの蘇我入鹿・蝦夷父子殺害事件は「乙巳の変」と呼ばれ、大化改新のほんの序章に過ぎません
大化改新とは、この乙巳の変後に行われた一連の改革のことまでを指します
だから要はアレですね、「フランス革命」が王様をギロチンにかけて終わりじゃないのと一緒ってことです
ここまでを分かった上で次のチャプターにいきましょう
2.改新の詔改竄とは?
さて、現代でもそうですが政治改革をする時にはまずその方針を示す必要があります
大化改新でも乙巳の変の翌年646年の元日に改新によって即位した孝徳天皇(中大兄皇子は天皇には若すぎるということで即位しませんでした)が「改新の詔」を発しており、日本書紀に収録されています
- 罷昔在天皇等所立子代之民処々屯倉及臣連伴造国造村首所有部曲之民処々田荘。
- 初修京師置畿内国司郡司関塞斥候防人駅馬伝馬及造鈴契定山河。
- 初造戸籍計帳班田収授之法。
- 罷旧賦役而行田之調。
これがその条文なのですが何言ってんだかサッパリ分かりませんね
というわけで分かりやすく噛み砕いたものをどうぞ
1.天皇&豪族の私有地・私有民中止しまーす
2.地方制度(国郡里etc)や軍事制度を定めまーす
3.初めて戸籍&計帳を作って班田収授(口分田を全国民に支給)しまーす
4.古いのやめて新しい税制を作りまーす
ここに書かれた内容はこの後飛鳥時代全体をかけて実現されていきます
とはいっても例えば戸籍の製作は四半世紀後の670年になるまで制作されないので(庚午年籍)改革の実行も一筋縄ではいかなかったみたいですね
3.改新の詔書き換え疑惑 -郡評論争とは?-
さて、先ほど紹介した改新の詔に「『郡』が設置された」という記述があります
しかし他の史料を見ると「評」と書かれていたため戦後「郡評論争(=郡と評で正しいのはどちらかの論争)」が繰り広げられます
高々漢字一文字でこんなに揉める必要もないと思う人も多いと思いますが、もし改新の詔の「郡」が誤りで「評」が正しかった場合、改新の詔には他にも誤りがある可能性も考えられますよね?
つまりこの論争には律令制(=律令という法律を定めてそれに基づいて政治をする中国由来のスタイル/日本では平安時代初期まで行われた)の出発点である改新の詔の信頼性への問題提起という意味合いもあったんです
で、結論から言うとこの時代の地方行政区画は「郡」ではなく「評」だということが判明しました
なんで分かったのか?
簡単です
当時実際に書かれた史料を見つければそれで済む話なので
とはいっても当時は紙もろくに普及していなかった時代
何に書いたのか不思議に思う人もいるかもしれませんがコイツに書いていました
アイスの棒や卒塔婆ではありません
木簡です 細長い木の板です
この木簡がこの時代には紙のように使われ、木なので地中でも残っているものが多くありました
今回の郡評論争に終止符を打ったのは藤原宮(=天武天皇が造営を開始し持統天皇が遷都した都にある宮殿)で見つかった木簡です
藤原宮は694年から710年、つまり平城京遷都まで使われたんですがこのうちのある時期に全ての木簡の表記が「評」から「郡」に変わっていたんです
その「ある時期」とは701年
ちょうど大宝律令が制定された年です
つまり、大宝律令によって名前が「評」から「郡」に変わったと考えられるんです
となると改新の詔には当時存在しないはずの行政単位の名があることになります(江戸時代の書物に東京都と書いてあるようなものです)
日本書紀編纂時点では既に評から郡に変更されているのでそれに合わせて変えたのでしょうかね
4.大化改新は嘘っぱちか
改新の詔にウソが含まれるとなると他にも嘘が入っているんじゃないのか?あるいはそもそも大化改新そのものが作り話だったんじゃないのかという説まで出てきました
そして1970年代には大化改新は嘘っぱちだったと言う説が一時期有力視されることになります
しかし、後に発見された木簡の記述などから現在では大化改新自体は存在したものの、改新の詔には日本書紀編纂時に潤色が加えられたと言う説が有力視されています
でもなんで潤色なんてしたんだと思います?
答えは意外と簡単です
知っている方も多いと思いますが、中臣鎌足は死の前日に天智天皇(=中大兄皇子)から藤原姓を賜り藤原氏(道長が有名ですよね)の祖とされる人物です
そして日本書紀編纂の中心人物に藤原不比等(ふひと)という人物がおり、この人は鎌足の実の息子にあたる人物です
パパが行ったクーデターが大化改新なんですから、当然改新によって倒された蘇我氏は悪役に仕立て上げないとダメですよね
そして多少話を盛ってパパの手柄を大きく見せたくなるのも子の気持ちだったんではないでしょうか
もちろんこの潤色の理由は僕の勝手な想像にすぎませんが、大体こんなところだろうなぁというのは察しがつきます
「歴史とは勝者の視点から見た記述である」とはよく言いますが、大化改新もよくこの事実を表しているのではないでしょうか
もしかしたらまたこの歴史talkをやるかもしれませんが一応次回はミニカー紹介の予定です
以上
【こぼれ話】
ここでは本編では話していないエピソードなんかをご紹介します
○大化改新によって退位した皇極女帝ですが、実は記録に残る最初の生前退位です
また歴史上数少ない重祚(天皇に2回なること)をし、斉明天皇として孝徳天皇の死後に再び即位しています
○意外にも乙巳の変で中大兄皇子川についた蘇我氏の人もいました
それが蘇我倉山田石川麻呂(蘇我が苗字で以降は名前)です
この長ったらしい名前の人は蝦夷の甥にあたる人物ですが蝦夷・入鹿父子とは不仲だったようで2人を滅ぼすのに一役買い後に右大臣に就任しています
まあ4年後に中大兄皇子&鎌足の陰謀によって殺されるんですけどね