ADHDの子どもに対しての

「ありのままの個性を認める」「のびのび育てよう」(だから薬は要らない)という意見や、

「薬が切れたとき余計に自尊心を失うから、薬は要らない」という考えを目にして思ったこと。


私は不注意ばかりで多動は無かったのでちょっと近いところからの憶測になってしまいますが

だいたい同じことが言えると思うので書きます。

薬を闇雲に推奨するわけではありません。



あくまでADD(という診断)の一人である私の感覚では、


この障害(と呼べるレベルの極端さ)で

自分の思うとおりに動けない「もどかしさ」を現に感じている、

その状態をもって「ありのまま」と呼ばれ、持ち上げられることに絶望感を覚えます。

(実際「ありのまま」ではあるのですが)



いくら親が褒めてくれても、好きなことをしている間が楽しくて集中できても、

学校や仕事場、人と交わるシーンで思うように役に立たず、からかわれ、迷惑をかけ、

やらなければいけない、と思っていることにすら集中できない。

もっとやりたい事があって、周りの活躍する人のように格好良くなりたくても、

自分にはどうにも出来ない「個性」に振り回される。


そうして自尊心を失っているときに、

「そのままのあなたで良い」「自信を持って」

なんて言葉を身内からかけられて、嬉しさよりも惨めさが勝つこともあります。

人並みに社会に出ようとする限り、「つまづき続ける」という個性を一生背負わないといけないのは苦しい事です。



生きてれば素晴らしい楽しい、とはなかなか思えません。

衣食住が安定すれば次は自己実現をしたいと思うのが自然だし、

周りの人が成功してる様子は嫌でも目に入ります。

苦労は成長に大事なことかもしれないけれど、

その間にも他の人は自分より高い次元で一歩先行く苦労をしている現実は変わりません。



悩んだ末に薬を使う、使わせる人までも「安易」「薬に逃げている」と言ってしまうことは

非常に乱暴だと思います。

ADHDの良いところばかり見ていると、いずれ本人が傷つくのではないでしょうか。


ただそれだけで食べていけるような才能は滅多にありません。

生活、進学、就職で本人が困っているのにも関わらず「障害」を「個性」と呼び続けるくらいなら、

今属する社会ではそれが「障害」であると受け止めた上で、

社会に認められる人間を最大限目指す方が有意義と思います。

そのような意味で薬を必要とする人はいるし、責められたことではないと思います。

(勿論、薬以外にもやることはありますが)