2章 現代暴力批判論

「ラビリンス Pr-Ⅱ」 カンバスに油彩 162.0×130.3 1977年制作by加藤
(銀座 村松画廊個展出品策)
--暴力は人間の本質に属する。人間の本質が暴力によって構成されている
のであれば、人間とはたんに存在するのではなく、暴力的に存在する生
き物であるというべきである。 今村仁司 (『清沢満之の思想』)
--社会は邪悪であるほうが好都合であるような状況のなかにたえず私たち
を置く。(略) 邪悪さを可能にする条件は、限定された社会的状態と一体
なのである。邪悪な者自身や愚か者が・・・何を言おうとも、無私な邪悪さ
など存在しない。邪悪さは利益であり、何かの償いである。複雑な社会的
利害に応じて、抑圧的関係のなかに刻みこまれていないような人間的邪悪
さなど存在しない。 ジル・ドゥルーズ(『無人島』)
ーー ”You can fool some of the people some of the time ,You can fool all the
peaple all the time, but You cannot fool all the peapl all the time. ”
A・Lincoln
(おまえはある人びとをあるとき騙すことはできる。ある人びとをずっと騙す
こともできるだろう。しかしすべての人びとをずっと騙すことはできない。
(A・リンカン 鶴見俊輔訳 )
1 「法維持暴力」に憑かれた亡霊たち
「戦後民主主義」という暴力 --ある少年の出遇った「戦後」から ①
半世紀も前のことだ。世評につられてはじめて知った思想家の書物を手にとって頁をめくったとき、「明るい廃屋」という見出の次に一段小さな活字で組まれた詩句の断片が眼にとびこんできた。
ひさしくかんじてきたことーー
この明るい陽射し それに この廃屋
(アンナ・アフマートヴァ 『時の駈けり』一九三九年作) (註1)
この短い詩句は青年にとって忘れられない幼少期の記憶をありありと呼び覚まし、焼きついていた遠い情景が気息を吹きつけるように描きだされてくるのを感じさせた。一瞬のうちに人生のすべてを凝縮するように高速度で逆流回転する根源的な時間と、今ここにあらわれた懐かしくも哀しい空虚そのものの単調さにひそむ、真実の詩の空間が呼び起こした情景ーー青年はおのれの〝原像〟に直面して遠くて近くにある感慨に沈んだ。
“カアちゃあん、いってらっしゃあい!” 幼子は、ゆるやかな坂道をいそぎ工場にむかう母ちゃんのふりむく姿をめがけて声をかぎりにさけんだ、毎朝毎朝、小学校に通うようになるまで。 ひとりぼっちになると「廃家」の板壁にもたれ筵(ムシロ)に座り、陽光を浴びながらぼんやりと紺い空のひろがりの一画にある白い太陽をながめていた。幼子しかいなくなった黒い闇しかない「廃屋」のなかは怖かった。明るさと暗さの極端な対比世界が刻まれる、と同時にすべてが単調そのもの、意味のしれない空虚感がせつなくとりまいていた。 哀しみをふりきるように幼子は土に埋もれていた鉄釘を手にして土に絵をえがきはじめた。映画館の看板でみたクラマテングやチャンバラや兵隊サンやそして写真でみた父ちゃんの顔など・・。
夕方、うれしくて母ちゃんのからだにからまりついた。「廃屋」は60ワットの裸電球の明かりに母ちゃんのぬくもりを漂わせて生き返り、灯下は貧しくもせわしいが、あたたかい家庭の音をひびかせてうれしかった。ペコペコに空いた腹を粗食がみたした。夕餉がすむといろりを囲んで母ちゃんの話にむねをときめかせた。「父ちゃんは鋳物職人で働き者だったししょっちゅう買出しにでかけて戦時中も食べ物にこまることもなかったんだよ」「父ちゃんはいっしょににげなかったの?」「近所の人たちを逃がしておまえも行けと言うの。いつもの空襲のときは自分が身につけていたお財布と通帳とハンコウの入った袋をわたしの腰にしばりつけて後から行くからって・・。 B29がたくさんの焼夷爆弾を落としてきてね、火の海のなかをにげまわったの。逃げるのに必死で近所の人たちもみんなバラバラになってね。大きなトタン板が飛んできてわたしたちを打ったの、背中におんぶしたおまえも清美もわんわん泣いてね、その時〝マサヨー、キヨミー、コウジー〟って呼ぶ父ちゃんの声が聞こえて思わず〝ココよー、ドコにいるのー!!?〟って叫んだけれど、姿はなかった。あれは、父ちゃんの最期をしらせる声だったんだね・・」。
空襲が終わって父ちゃんを探しまわった、あたりは焼け焦げた人たちがおりかさなっていた。すぐ何台もトラックがきて兵隊が死体をスコップですくって荷台に放り込みヤマのように積んでいく。大島(現江東区、当時は城東区)の家にもどってみると焼け跡で男の人が防空壕にためておいた米を取り出して炒っていた。主人と出会わなかったか?尋くとだれも来なかったという。焼け跡を探し回っていた時、緑町(足立区)のヤマダ鋳物工場の職人さんたちと出会い「籐一つぁん、どした?」と訊かれて母ちゃんは「死んでしまった・・」と応えたと言う。戦争が終わったら「藤一つぁんと鋳物工場を造ろう」と語り合っていた仲間たちだった。父ちゃんの遺体が見つかっていないいじょう、万がいつ生きていてくれるという望みを抱いて伊藤のおばさんの住む田舎の家にむかってすし詰めの汽車に乗った。「離れ離れになるようなことがあったら姉の家に行け、そこで落ち合おう」と言っていた父ちゃんの言葉に従った。東北のある市のはずれにある伊藤のおばさんの家で日増しに遠くなっていくしかない父ちゃんが迎えにきてくれるのを待った。
「オラアッ、食ィヤガレ!」 おじさんがご飯茶碗を投げつけてきた。「伊藤さんにはたくさんお金をあげたのにね・・」。母ちゃんは伊藤さんの家をでて隣の町に家を借りた。幼子の記憶にのこる人生のはじめにあるのは3才頃からのこの家で過ごした生活からである。3才を少し過ぎたある夜のこと、国鉄(現JR)車輌工場が大火災を起こし夜空は紅蓮の炎に染まった。母ちゃんは用事ででかけていた。お美ちゃん(長女清美)に手をひかれ「カアちゃんはドコ?」にいるのと泣き叫んだ。・・・異様な不気味な光景が幼子を襲い脳裡を突き刺し無意識に貯蔵されていた衝撃の光景を呼び覚ましたといえるだろう。母ちゃんの背におぶわれて空襲の惨禍の中を逃げ惑ったとき、満1才と1ヵ月の赤子だった。 未分の癒合状態にあり、心身が前空間の混沌とした包摂状態としてこの世におしだされたばかりだが、赤子の眼に映じた阿鼻叫喚の光景が、照射された閃光が一瞬に印画紙に焼きつけられた〝光画〟となって、幼子にこの世の終わりのような断末の光景を再現し二重映しに垣間見せたものだろう・・。 この国の〝戦後〟にいたるその滅亡の映像を刻んだ赤子が珍しかったのか!?幼子の前に現れたアノ〝化け物(註2)は奇妙な印象を残していった。というのも、幼子は恐ろしくて布団から飛び出し、かたわらで夜なべの針仕事をしていた母ちゃんに泣きながら抱きついてうったえた。〝化け物〟はコワイ目で覗きこみ睨んでいたが、あまりに恐怖し泣きさけぶ幼子が可哀想になったものか?〝コレハ、マズイ・・〟と苦笑いしだした(ように見えた)。そしてあやすような目つきに変わると、ゆらゆらゆれながら遠のいて壁の中に消えていった。「こわいユメをみたんだね」、といって母ちゃんはオッパイをふくませた。いくら指さしても母ちゃんに〝化け物〟の姿がみえるはずもなかった。
「トオちゃんはセンソーにいかなかったの?」。「(徴兵)ケンサにいったけど、アカガミがこなくて。ジョウブなはたらきものの人なのに“どうしてこないんだろう、おかしいなあ・・”ていってるうちにクウシュウになってしまって・・」(註3)。「ユメにトウちゃんがあらわれてね、セイボウ(制帽)をふかくかぶっておおきなリュックをせおいタビジタク(旅支度)のようなスガタでたっている。いきていてくれたの!むかえにきてくれたんだね!うれしくてなみだがあふれてとまらない、おまえたちをよぼうとするとトウちゃんは“おれはいかなくてはならない”というの。“いくってどこへ?” “キタ(北)のほうだ。とおいところだ”“そんなところへ、どうしてもいくの?”トウちゃんはうなずくと。せをむけてどんどんいってしまうの。“トウちゃん、まってえ!いかないでー!”ひっしにさけぶじぶんのこえでおこされてユメだとわかった。なみだとあせでびっしょりだったよ」。
カアちゃんは「トウちゃんはしんだことをしらせにきたんだね・・・」とつぶやき、しつんだメでとおくをみていた。
父 藤一(明治42~昭和20年) 撮影当時37歳 母 マサヨ(大正3~昭和57年) 撮影当時63歳
母ちゃんは横須賀の神社の宮司の次女としてそだったこともあってか、信仰心の篤(あつ)いひとだった。横須賀弁なのだろうか、やわらかいキレイな抑揚の発音には包みこむような清潔なやさしさがあった。“あんだだばだしたモノ、ウメそーに食ってくれるがらアリガテなハ(あなたはだした料理をおいそうにいただいてくれるからありがたい気持ちになるね)” と母ちゃんへのお世辞ぬきのことばをなんどか耳にした。つつましい女性にそだてるような環境だったのだろう。「厠(かわや)にご飯粒がおちていたら、それをひろい拝んで食べなさい!というほどきびしいおじいさんの躾だったよ」という母ちゃんの話におもわず「キッタネ~~(汚い)!」 と笑いあった。「おじいさん」は高橋是清翁を尊敬していて立派な長い白髭を自慢していたそうだ。少女時代の思い出を語るとき明るんだ幸せそうな表情がすべてをかたっていた。だから、高等小学校時代に父母をなくし高女への進学をあきらめたこと、姉キヨノと二人になりやがて姉も逝くという母ちゃんの薄幸な身のうえを知った時少年はどん底に突き落とされていく気がした。母ちゃんの孤独も苦悩もそして小さな喜びも少年が成長していくほどに内属化していったから。
母ちゃんは父ちゃんが死んだとき、32才になったばかりだった。まだ東京にもどる気持ちだ
った。ある男性との見合いの話があり、赤子を背負いキヨミをつれて上京した。一晩泊めてもらうことになったが、夜半灯りに眼がさめると男性が母ちゃんの顔を覗き込んでいた、キヨミも気がついて〝コワアイ!〟と母ちゃんに抱きついてきた。男性は隣室にもどったが、翌朝早々に失礼して縁談は断ったという。「父ちゃんの子を4人もうみ、そのうえ他の男の人の子をうんでなんとしよう。この子たちは自分でそだてよう」と決心したと母ちゃんは言った。この話は少年になってから聞いた。なお「4人」とは長女キヨミと赤子の間に次女と三女がいて次女は新潟の親戚に、三女は伊藤宅に疎開させていた。この地方の県庁所在地の中央駅前からチンチン電車で6、7キロほど離れた(当時市統合がすすんでいなかったから、おそらく)1万にも満たない人口の町の一角にあった「廃屋}を借りて住い、母ちゃんを囲んだ一家5人が肩よせあっての生活がはじまったのであった。そして幼子は学童期に入っていくのだが、「戦後民主主義」といわれる世相からあたえられた実態は、少年に違和感を与え、ズレは不信と疑念をはぐくみ、傷つき怒りを内臓させていくのだった・・・。
【②に続く】
註1 『わが思念を去らぬもの』 内村剛介著(三一書房)
註2 前回「1章 ディアスポラを生きる}を参照下さい
註3 「父ちゃん」が徴兵検査の通知を受けたのは36歳であり、戦前20代にあってもなかったというのはどうしてだろう? 半籐一利さんによれば、事務手続上のミスはいくらもあったそうだが、徴兵年齢の強制時期にすらなかったというのはたんにミスによるものではないのは明らかだ。鋳物工という軍需産業の要に当たる職人には徴兵は除外したことによるものと推定している。