小野崎城の真向かいにある白鷺神社には「今宮館跡」の標柱が立てられています。いわゆる単郭方形の館のようで、その位置関係からも小野崎城に付随する館群のひとつと見做したくなります。小野崎城が佐竹氏時代にもある程度機能していたとすれば、小野崎城と今宮館とで棚倉街道を挟む形となりますので、小野崎城との連携を考えてもよいのだろうと思います。ただ歴史的には小野崎城と今宮館とに直接の関係性はなく、小野崎城が小野崎氏の城であるのに対し、今宮館は佐竹一族の今宮氏の館ということになるようです。
今宮氏は佐竹氏第14代当主・義治の子にして第15代当主・義舜の兄にあたる今宮周義によって創設されました。長庶子であった周義は佐竹氏を継ぐことができず、久慈郡今宮白羽社の別当職につき、佐竹氏の修験・社人頭領という立場を担うこととなりました。イメージ的には後北条氏における箱根別当の北条幻庵みたいな人を想定すればよいのでしょう。周義には子がなく、今宮氏は義舜の子である永義が継いでいます(永義も長庶子みたいです)。永義は通称を「今宮大納言」としていたようで、今宮館には「今宮大納言坊館」との伝承もあるそうですから、まさに永義が今宮館にいたのでしょう。修験者の統率を任されていた今宮家は、佐竹氏が秋田に移った後も代々その職を受け継いでいたようです。常陸も出羽も修験道が盛んな地域ですから、実際に統括官が必要だったことは想像に難くありません。統率されていた修験者の方々が実際にどんな役割を担っていたかまではわかりませんが、普通に考えてもまず諜報機関の役割は持っていたのでしょう。なんとなく裏仕事っぽい香りがするこの役割を担う今宮氏が、常陸太田城の鬼門(東北)に位置しているのもなんとなく象徴的な気がします。白鷺神社の境内には古墳状の高まりをピークとする土塁が残されています。今宮氏とその配下たちが「オンナンタラカンタラ」と唱えながら修験に励んでいた姿を想像しながら館内に入ると、なんだか本当に呪文が聴こえて来そうな気配がします。

