こんにちは。城メグリストこと萩原さちこです。
今週は、徳川二十八神将のひとり、水野勝成についてです。
水野勝成は、三河の刈谷藩主で、大和郡山藩主を経て備後福山藩の初代藩主となった人物。
徳川秀忠の乳兄弟でもあります。
徳川家臣として高天神城攻めで初陣を飾るも、父が織田信長に引き抜かれて織田家臣に。
第二次高天神城の戦いでは大激戦のさなか15の首を取って猛将ぶりを発揮します。
武田氏が滅亡すると、家康のもとに戻り、黒駒合戦に参戦。
鳥居元忠の抜け駆けにぶち切れて、敵陣に突入してここでも猛将ぶりをいかんなく見せつけます。
小牧・長久手の戦いにも出陣していますが、折り合いの悪かった父に勘当されると、転々とした末に京都へ。
京都ではかなりの自由人となって、ふらふらとケンカしたり殺人を犯したり、ちょっと荒れた生活をしていたようです。
その後は豊臣秀吉の支配下に入りますが、せっかく武功を挙げて知行を得たのに謎の出奔。
逃亡して六左衛門と名乗り、秀吉からは刺客を放たれたとか…。
その後も自由に生きていた勝成でしたが、秀吉が没すると忘れていたなにかに火がついたのか、再び徳川のもとに戻ります。
父とようやく和解したものの、なんと父は西軍への寝返りを断ったことがきっかけで惨殺。
これにより37歳にして家督を相続し、刈谷の領主となります。
関ヶ原合戦では大垣城攻めを行い、さらには相良頼房・秋月種長・高橋元種らを内通させることにも成功しています。
時は過ぎて大坂の陣では、息子の勝俊も引き連れて参陣。
最後の大戦らしく大暴れし、天王寺で真田信繁が家康に突撃し大ピンチを迎えたときも、信繁隊を壊滅させる働きを見せました。
さて、勝成の城といえば、福山城ではないでしょうか。
大坂の陣の論功行賞で大和郡山に転封された勝成ですが、元和5年になると、福島正則の改易にともない徳川秀忠から福山10万石を与えられます。
そして、築いたのが福山城と福山城城下町です。
元和元年の「武家諸法度」により城の改築すら厳しい制限がかかる時代、なんと例外的に新築を認められた特別な城でした。
西国鎮護の拠点として、徳川幕府にとっての重要な役割を担った城だったのです。
新幹線のホームからが、ベスト撮影スポット。
城を新幹線が分断しているため、こんなふうになっているのです。
日本で1、2位を争う駅近の城です。
では、今週はこのへんで。
来週もよろしろ~。
萩原さちこ(城メグリスト)
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