こんにちは!
れきしクンこと、長谷川ヨシテルでございます。
今回は「大海戦時代」ガチャで、
SSRの出現確率がアップしている、
「宇喜多秀家」さんをご紹介したいと思います!
秀家さんは教科書にも登場した武将で、
豊臣秀吉の政権の「五大老」の1人に指名された人物です。
もともとは備前(岡山県)の岡山城の城主、
宇喜多直家の息子として生まれました。
岡山城は、
しろくろジョーカーのGPSスポットにもなっていますね~。
現在残る岡山城の石垣は、
後に小早川秀秋によって築かれたものがほとんどなのですが、、、
発掘された秀家さん時代の石垣が、
きちんと展示されています。
さて、宇喜多直家は1581年に亡くなるのですが、
中国地方を制圧するために毛利家対策として、
1582年に、宇喜多家を重視した織田信長が、
中国攻めの総大将である羽柴秀吉の配下に置きました。
この時、家督を継いだ秀家さんは、わずか11歳!
そのため、叔父が代理の当主となりました。
元服をした秀家さんの「秀」という字は、
羽柴秀吉から授けられたもので、
(すでに信長は「本能寺の変」で亡くなった後)
天下人の秀吉の猶子(相続のない養子縁組)となりました。
かなりのイケメンだったと言われていて、
秀家さんが大坂城を歩きまわると、
女中たちがざわついたそうです。
なんと羨ましい(笑)。
”戦国の貴公子”などと称される秀家さんは、
順風満帆な大名人生を歩むように見えましたが、
義父の秀吉が亡くなると運命は一変します。
秀吉の死後に起きた、
1600年の「関ヶ原の戦い」で西軍について戦ったため、、、
(宇喜多秀家陣地跡@関ヶ原古戦場)
徳川家康によって改易となってしまったのです。
この時、秀家さんは29歳で、
武将として脂が乗り始めた頃でした。
薩摩で逃亡生活を送った後に、
家康の許に送られて捕縛された秀家さんは、
一命は取り止めたものの、
1606年に八丈島に島流しとなりました。
江戸時代に、八丈島は流刑地としておなじみになりますが、
徳川幕府によって公式に八丈島に島流しとなったのは、
秀家さんが最初の人でした。
この後、秀家さんは八丈島で、
なんと約50年生き続けます。
私事ですが、
実は昨年、秀家さんに関する仕事をやらせていただき、
八丈島に取材に行かせていただきました。
そこで、秀家さんのお墓をお参りしてまいりました。
秀吉の猶子、五大老の1人、全国屈指の大大名、
そのような栄華を極めた武将とは思えない、
ひっそりとした素敵なお墓でした。
お墓の入り口には、
故郷の岡山城から運ばれた、
天守閣の礎石が置かれています。
また、八丈島の海岸に造られた、
秀家さんと正室の豪姫(前田利家の娘、島には同行できず金沢に帰省)の、
2人の銅像が建てられています。
2人の銅像は、
故郷の岡山の方角を向いているそうです。
ほっこり、良い話。
よってくだんのごとし。
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