こんにちは。城メグリストこと萩原さちこです。
先日、岩屋城を久しぶりに訪れました。
岩屋城といえばコレ!
「嗚呼壮烈 岩屋城跡」の石碑!
そう、ここは岩屋城の戦いがあった場所なのです。
この城で散ったのが、高橋紹運です。
というわけで、高橋紹運のお話を。
高橋紹運は、豊後大友氏の家臣。
大友義鑑の重臣・吉弘鑑理の次男です。
立花宗茂の実の父でもあります。
紹運は法名で、はじめは鎮理、1569(永禄12)年に大友宗麟の命で高橋氏を継ぐと、高橋鎮種となります。
立花道雪とともに筑前を支配することになると、諸勢力とドンパチ。
しかし1578(天正6)年の耳川の戦いで大友氏が薩摩の島津氏に大敗を喫し、有力武将が続々と討ち死。
肥前の龍造寺氏、筑後の筑紫広門、筑前の秋月種実らが大友領へと迫ってきます。
さて、時は過ぎて、1586(天正14)年。
ついに九州制覇を目指す島津氏、大友氏を滅ぼさんと迫ってきます。
1584(天正12)年の沖田畷の戦いで龍造寺隆信を討伐したことで勢いを増し、もはや敵なしだったのです。
一方、盟友だった立花道雪の病死により大友家の勢力は急速に衰えていました。
筑前で最後まで抗い続けたのは、岩屋城の紹運と、宝満山城主・高橋統増(紹運の次子)、立花山城主・立花宗茂(紹運の長子)だけでした。
こうして起こったのが、紹運が籠る岩屋城を攻めた熾烈な激戦というわけです。
紹運とともに岩屋城に籠った兵は、わずか763名。
対する島津軍は、2万(5万とも)!
島津軍は降伏勧告を何度も出すも紹運は応じず、徹底抗戦したといわれます。
「主家が盛んなる時は忠誠を誓い、主家が衰えたときは裏切る。そのような輩が多いが私は大恩を忘れ鞍替えすることは出来ぬ。恩を忘れることは鳥獣以下である」
とは、断固拒否した紹運の言葉です。
岩屋城は激しく攻撃されるも、紹運はこれを撃退。
講和にも応じず、半月近く奮闘します。
宰府を流れる染川を鮮血で染めたといわれるほど、果敢に打って出た紹運。
しかし、島津忠長の指揮による総攻撃を受けてついに玉砕。
紹運は壮絶な死を遂げたのでした。
最期は、切腹した後に腸を相手に投げつけたとか…!
岩屋城は落城、城兵は全員戦死したといわれます。
しかし、島津軍は岩屋城攻めで4,500名という多くの兵を失うことに。
想像以上のダメージを受けて立花山城への攻撃がうまくいかず、立て直しに時間を要すことになります。
この間に、豊臣秀吉の軍勢20万が九州に上陸。
島津軍は薩摩への撤退を余儀なくされ、九州制覇は夢幻となったのでありました。
やったぜ、紹運!
島津氏の九州制覇を阻止したのは君だ!
紹運が岩屋城に籠って徹底抗戦したのは、島津勢に迂回され、実子・立花宗茂が守る背後の立花山城への攻撃を阻止するためだったとも考えられます。
また、宝満山城には高橋統増、岩屋城から避難した非戦闘員もいました。
主家と息子、領民を救うため、豊臣軍の援軍が到着するまではと、紹運は自らを囮として徹底抗戦したのかもしれません。
なんという男!いや、漢!
ちなみに子の立花宗茂は、秀吉のもとにで大名になり活躍。
そして関ヶ原合戦後、西軍について改易された大名のうち旧領を回復した唯一の人として名を残すことになります。
岩屋城の二の丸には、紹運の墓と763人の城兵を弔う慰霊碑が建てられています。
安らかに…。
では、今週はこのへんで。
来週もよろしろ~。
萩原さちこ(城メグリスト)
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