こんにちは!
れきしクンこと、長谷川ヨシテルでございます。
今回は、信長・秀吉・家康という三英傑の時代を生き抜いた、
「池田輝政」をご紹介いたします!
輝政と言えば、
世界遺産に登録されている「姫路城」を、
現在の形とした人物として知られています!
(↑いつ見ても「よく撮れてる」と思う自慢の一枚)
一般的には、そのイメージが強く、
実際にどのような経歴を持った武将かというのは、
そこまで知られていないような気がします。
どのような経歴か、端的に言いますと、
「寡黙で、臨機応変な、世渡り上手」武将です!
輝政さんの父は「池田恒興(つねおき)」と言いまして、
織田信長の乳兄弟(恒興の母=信長の乳母)でした。
その深い関係性ゆえに、
父と兄の池田元助(もとすけ)と共に織田家に仕え、
輝政さんは信長の小姓として仕え始めました。
つまり、織田家のエリートコースに乗ったわけです。
しかし、信長は「本能寺の変」で亡くなってしまいます。
羽柴秀吉が「山崎の戦い」で明智光秀を滅ぼした後、
勢力は大きく分けて2つに分かれました。
秀吉を中心とする勢力と、
織田家の筆頭家老だった柴田勝家を中心とする勢力です。
果たしてどちらが織田家の後継者的立場となるのか!?
そのために開かれたのが「清須会議」でした。
この会議に、輝政さんは参加していないものの、
父の恒興がこれに参加して、
三法師(信長の孫)を推す秀吉をバックアップしたのです!
こうして、池田家は秀吉に味方する道を選んだのです。
この選択が大成功!
周知の通り、秀吉は「賤ヶ岳の戦い」で柴田勝家を降し、
天下取りに名乗りを挙げたのでした。
秀吉は「清須会議」で、
池田家が味方してくれたことに感謝していたようで、
その後に行われた信長の葬儀では、
羽柴秀勝(信長の四男、秀吉の養子)と共に、
輝政さんは信長の棺を担ぐ大役を果たしています。
また、その後、輝政さんは、
羽柴秀次(秀吉の養子、後継者)の配下となったのですが、
秀次が謀反を秀吉から疑われて切腹に追い込まれ、
秀次の妻妾も切腹が命じられる中、
若御前(輝政の妹)は秀次の正室ながら、
お咎めは特になかったといいます。
少し、時代が前後してしまいますが、
このお咎めなしには「清須会議」以外の池田家の功労がありました。
1584年に「小牧・長久手の戦い」という合戦があったのですが、
池田家は早くから秀吉に味方して、
織田信雄(信長の次男)と徳川家康の連合軍と戦った結果、
輝政さんの父の恒興と兄の元助は、
討ち死に(この後に輝政さんが池田家を相続)をしてしまっていたのです。
しかも、その討ち死には、
秀次(秀吉の後継者)の作戦ミスという一面があったため、
秀吉は池田家に頭が上がらない部分があったと思われます。
そして、秀吉の死後は、
次に天下を握ると見た、徳川家康に接近して、
「関ヶ原の戦い」の前哨戦の「岐阜城の戦い」では、
福島正則と共に先鋒を務めて落城させました。

関ヶ原の本戦では、戦闘に参加しなかったものの、
南宮山(なんぐうさん)の毛利軍の押さえとして、
東軍の勝利に貢献しました。
そして、その功績から、
姫路城の城主となり、城を大改築して、
現在まで伝えているというわけです!
輝政さんは、普段は無口な男だったそうで、
武功を挙げることにも、そこまでのこだわりはなかったといいます。
とは言え、ちゃっかりしているところも多く、
信長、秀吉、家康の三英傑全員から信頼され、
しっかりと鞍替えをして生き抜いている辺りは、
さすが戦国武将といったところです。
最後に、輝政さんの一番好きなエピソードを、
ご紹介して終わりにしたいと思います。
輝政さんは、自身が10万石を超える大名となった際に、
「小牧・長久手の戦い」で、
自分の父(輝政)を討ち取った、
徳川家の家臣の「永井直勝」を呼び出して、
父の最期を語らせたといいます。
最期まで戦い抜いたという、
父の勇敢な姿に涙を流す輝政さん。
しかし、その父を討ち取った直勝の知行は、
たった5000石…。
「父の首の値打ちは五千石か…」
嘆く輝政さんは、なんと家康に直勝の加増を直訴!
家康はその直訴を、もっともだと受け入れ、
直勝は1万石以上の大名となったと言われています。
以上が、
父の首を取った男の加増を願い出る、
懐の大きい輝政さんの良いお話です。
逸話であって史実とは言えませんが、
好きな戦国話の1つです。
よってくだんのごとし。
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