れきしクン・その百五十【池田輝政】☆「五七桐の栄光」ガチャ開催中! | しろくろジョーカー公式ブログ

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こんにちは!

 

 

れきしクンこと、長谷川ヨシテルでございます。

 

 

今回は、信長・秀吉・家康という三英傑の時代を生き抜いた、

 

「池田輝政」をご紹介いたします!

 

 

輝政と言えば、

 

世界遺産に登録されている「姫路城」を、

 

現在の形とした人物として知られています!

 

(↑いつ見ても「よく撮れてる」と思う自慢の一枚)

 

 

一般的には、そのイメージが強く、

 

実際にどのような経歴を持った武将かというのは、

 

そこまで知られていないような気がします。

 

 

どのような経歴か、端的に言いますと、

 

「寡黙で、臨機応変な、世渡り上手」武将です!

 

 

輝政さんの父は「池田恒興(つねおき)」と言いまして、

 

織田信長の乳兄弟(恒興の母=信長の乳母)でした。

 

 

その深い関係性ゆえに、

 

父と兄の池田元助(もとすけ)と共に織田家に仕え、

 

輝政さんは信長の小姓として仕え始めました。

 

 

つまり、織田家のエリートコースに乗ったわけです。

 

 

しかし、信長は「本能寺の変」で亡くなってしまいます。

 

 

羽柴秀吉が「山崎の戦い」で明智光秀を滅ぼした後、

 

勢力は大きく分けて2つに分かれました。

 

 

秀吉を中心とする勢力と、

 

織田家の筆頭家老だった柴田勝家を中心とする勢力です。

 

 

果たしてどちらが織田家の後継者的立場となるのか!?

 

 

そのために開かれたのが「清須会議」でした。

 

 

この会議に、輝政さんは参加していないものの、

 

父の恒興がこれに参加して、

 

三法師(信長の孫)を推す秀吉をバックアップしたのです!

 

 

こうして、池田家は秀吉に味方する道を選んだのです。

 

 

この選択が大成功!

 

 

周知の通り、秀吉は「賤ヶ岳の戦い」で柴田勝家を降し、

 

天下取りに名乗りを挙げたのでした。

 

 

秀吉は「清須会議」で、

 

池田家が味方してくれたことに感謝していたようで、

 

その後に行われた信長の葬儀では、

 

羽柴秀勝(信長の四男、秀吉の養子)と共に、

 

輝政さんは信長の棺を担ぐ大役を果たしています。

 

 

また、その後、輝政さんは、

 

羽柴秀次(秀吉の養子、後継者)の配下となったのですが、

 

秀次が謀反を秀吉から疑われて切腹に追い込まれ、

 

秀次の妻妾も切腹が命じられる中、

 

若御前(輝政の妹)は秀次の正室ながら、

 

お咎めは特になかったといいます。

 

 

少し、時代が前後してしまいますが、

 

このお咎めなしには「清須会議」以外の池田家の功労がありました。

 

 

1584年に「小牧・長久手の戦い」という合戦があったのですが、

 

池田家は早くから秀吉に味方して、

 

織田信雄(信長の次男)と徳川家康の連合軍と戦った結果、

 

輝政さんの父の恒興と兄の元助は、

 

討ち死に(この後に輝政さんが池田家を相続)をしてしまっていたのです。

 

 

しかも、その討ち死には、

 

秀次(秀吉の後継者)の作戦ミスという一面があったため、

 

秀吉は池田家に頭が上がらない部分があったと思われます。

 

 

そして、秀吉の死後は、

 

次に天下を握ると見た、徳川家康に接近して、

 

「関ヶ原の戦い」の前哨戦の「岐阜城の戦い」では、

 

福島正則と共に先鋒を務めて落城させました。

 

 

関ヶ原の本戦では、戦闘に参加しなかったものの、

 

南宮山(なんぐうさん)の毛利軍の押さえとして、

 

東軍の勝利に貢献しました。

 

 

そして、その功績から、

 

姫路城の城主となり、城を大改築して、

 

現在まで伝えているというわけです!

 

 

輝政さんは、普段は無口な男だったそうで、

 

武功を挙げることにも、そこまでのこだわりはなかったといいます。

 

 

とは言え、ちゃっかりしているところも多く、

 

信長、秀吉、家康の三英傑全員から信頼され、

 

しっかりと鞍替えをして生き抜いている辺りは、

 

さすが戦国武将といったところです。

 

 

最後に、輝政さんの一番好きなエピソードを、

 

ご紹介して終わりにしたいと思います。

 

 

輝政さんは、自身が10万石を超える大名となった際に、

 

「小牧・長久手の戦い」で、

 

自分の父(輝政)を討ち取った、

 

徳川家の家臣の「永井直勝」を呼び出して、

 

父の最期を語らせたといいます。

 

 

最期まで戦い抜いたという、

 

父の勇敢な姿に涙を流す輝政さん。

 

 

しかし、その父を討ち取った直勝の知行は、

 

たった5000石…。

 

 

「父の首の値打ちは五千石か…」

 

 

嘆く輝政さんは、なんと家康に直勝の加増を直訴!

 

 

家康はその直訴を、もっともだと受け入れ、

 

直勝は1万石以上の大名となったと言われています。

 

 

以上が、

 

父の首を取った男の加増を願い出る、

 

懐の大きい輝政さんの良いお話です。

 

 

逸話であって史実とは言えませんが、

 

好きな戦国話の1つです。

 

 

 

よってくだんのごとし。

 

 

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