こんにちは!
れきしクンこと、長谷川ヨシテルでございます。
今回は、武将としてだけでなく茶人としても有名な、
「細川忠興」をご紹介いたします!
現在、ゲーム内では、
「戦国数奇ガチャ」が開催されていまして、
「千利休」と共に、忠興さんのSSRのカードが登場しております!
⇒https://shirokurojoker.bushimo.jp/archives/22886
ところで、忠興さんの知名度って、
どれくらいなのでしょうか。
私が関連した歴史イベントで、
まだピックアップしたことが実はなかったので、
どれくらいの知名度があるものか体感したことはありません。
末裔の細川護熙さんが総理大臣をやっていますし、
熊本城の城主としても名が残っていますので、
おそらく「細川」という名前にはピンとくる方が多いのかなと思います。
さて、忠興さんは、
足利将軍家の家臣で、後に織田信長に仕えた、
細川藤孝(幽斎)の息子で、
正室は、明智光秀の娘の細川ガラシャ(玉)です。
こちらは京都の「勝竜寺城」にある忠興さんと玉の像です。
勝竜寺城(現在のものは再建)は、、、
2人が結婚したお城として知られています。
2人は戦国時代を代表する夫婦なのですが、
忠興さんのガラシャに対する愛情は、少し度を越えるものがありまして、
有名な逸話だと、
ガラシャと目が合った庭師を斬り殺して、
「いやらしい目で見ていたから成敗した」と、
その首をガラシャに見せつけたというものが残っています。
この時、ガラシャはまさかの無反応。
そこで忠興さんが「お前は蛇か」と、
分かるような分からないこと(例えツッコミ?)を言うと、
ガラシャは「鬼の妻には蛇がお似合いでしょ」と返したといいます。
また、「本能寺の変」の後に起きた「山崎の戦い」で、
明智光秀が亡くなり、明智家が天下のタブーになった時も、
ガラシャを離縁することなく匿っています。
このような関係性があるため、
2人はおしどり?夫婦として、よく知られているというわけです。
さて、忠興さんは、
庭師を斬った以外にも、家臣たちをよく手討ちにしていたようです。
斬った家臣の人数は、なんと36人。
茶道(忠興さんは千利休の高弟の「利休七哲」の1人)だけでなく、
和歌などにも通じていた忠興さんは、
「36人と言えば、三十六歌仙(平安時代の和歌の名人ベスト36)だな」という連想で、
愛刀を「歌仙兼定」と名付けたといいます。
ちょっとあれですね、趣味がわる、いや何でもないです。
ちなみに、家臣が残した史料には、
「天下一短気な人」と記されています。
とは言え、武将としての才覚は非常に優れていて、
秀吉の死後には徳川家康に接近して、
「関ヶ原の戦い(戦いの前にガラシャは死去)」で、
東軍として武功を挙げ、、、
(写真は西軍の人)
豊前(大分県)34万石の大名となり、
最終的に息子の忠利の代には、
肥後(熊本県)54万石の大大名になっています。
また、デザイナーとしても才能があったようで、
「越中ふんどし」や「越中具足」
(忠興さんの官位が”越中守”だったことに由来。具足は甲冑のこと)
「肥後拵え」などを考案したと言われています。
検索すると、様々な画像が出てきますが、
どれも、シンプルかつ実用的なデザインがされていることが分かります。
気になる方は、ちょいと検索してみてください。
よってくだんのごとし。
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