こんにちは!
れきしクンこと、長谷川ヨシテルでございます。
今回は、小田原北条家の第三代、
「北条氏康」をご紹介いたします!
なぜ今、北条氏康なのか…?
それは、私がゲーム内で、
SSR(超激レア)の北条氏康を所持しているからでございます。
そうです、ちょっとした自慢です。
さて、そんな北条氏康なのですが、
個人的には「戦国最強の武将」の1人ではないかと思っています。
居城としたのは「小田原城」!
「日本100名城」に選ばれている、関東屈指の名城です!
こちらのブログでもご紹介しましたが、
現在見られる小田原城跡は、
江戸時代に稲葉正則(春日局の息子)などによって大改築されたもので、
北条家時代の小田原城の本拠地は、
現在の小田原高校などがある城山にあったと言われています。
本郭の西の端には、
1590年の「小田原征伐」で、
豊臣秀吉の22万の大軍が攻めてきた時に増築した、
「小峰の大堀切」の跡が残されています。
肝心の氏康が活躍したのは、
秀吉の時代より一世代前の武田信玄や上杉謙信の時代です!
生まれは1515年!
武田信玄が1521年生まれで、
上杉謙信が1530年生まれなので、
有名な武将たちよりも、少し年上ですね。
なぜ”最強”かと申しますと、
まずはやはり、合戦に強いことが挙げられます!
有名なのは、1546年の「河越城の戦い」です。
▲川越城(河越城)
北条家以前に関東を治めていた、
古河公方の足利家、扇谷上杉家、山内上杉家が結託して、
8万の大軍で、北条家の河越城を攻めたのですが、
城兵3000、救援8000、合計1万1000という、
約8分の1の兵力を率い、奇襲を持って大勝利を収めたました。
この戦いは、「河越夜戦(よいくさ)」とも呼ばれ、
「日本三大奇襲」の戦いの1つに数えられています。
ちなみに、他の2つは、
1555年の毛利元就による「厳島の合戦」と、
1560年の織田信長による「桶狭間の戦い」です。
それ以降も、
戦国最強武将として名前がよく挙げられる、
武田信玄や上杉謙信などと関東の覇権を競い合い、
1561年には謙信に、1569年には信玄に、
小田原城を攻められていますが、両者共に撃退しています。
合戦の強さの他に、
内政(政治手腕)に優れていたことが挙げられます。
氏康は、全国の戦国大名に先駆けて、
「目安箱」を設置して領民たちの声を聞き、
検地を行って領内の田畑をきちんと把握し、
無駄な税を徹底的に削除していきました。
庶民に優しい政治を行っていたため、
一説によると、
北条家が治める領地では一揆が起きなかったと言われています。
さらに、インフラ整備も進んで行い、
小田原城周辺に設けた上水道は、
北条家の滅亡後に徳川家康に引き継がれ、
世界屈指と称された、江戸の町の水道に繋がったと言われています。
そしてそして、
北条流の築城術も忘れてはいけません。
小田原城は、総構え(そうがまえ)という、
城下町全体を約9kmの土塁で囲んだ城塞都市でした。
これは日本では画期的で、
後に豊臣秀吉の城造りに生かされています。
京都の市中をぐるっと囲んだ22.5kmの土塁の、
「御土居(おどい)」がそうだと言われています。
また「山中城」などに残されている、
畝堀(うねぼり)や障子堀(しょうじぼり)なども北条家の築城術の1つで、、、
これも後に秀吉の大坂城など、様々な城郭に採用されています。
まだまだ「北条氏康最強説」となる根拠はあるのですが、
今回はこれくらいにしておこうと思います。
あ、そう言えば、
今年の5月にリニューアルされたばかりの小田原城は、
多くの観光客が訪れています。
入場者数は、10月末までの半年間で46万人を突破して、
このままいくと、来年3月末までの80万人を超えるペースで、
最多の63年度の約59万人を大きく上回りそうだとのことです。
天守閣内の展示も一新されていますので、
是非訪れてみてくださいませ!
私は今年も初日の出を小田原で見る予定です~。
よってくだんのごとし。
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