こんにちは。城メグリストこと萩原さちこです。
今週は結城秀康にズームイン!です。
先週のエントリーで訪れた、柴田勝家の北ノ庄城。
1583年(天正11)の賤ヶ岳の戦いで敗れた後、やがてこの北ノ庄城を取り込む形で大改修されたと考えられているのが、福井城です。
福井城は、約270年間17代にわたり、越前松平家が治めました。
関ヶ原合戦後に初代藩主となったのが、結城秀康です。
だ、誰ですか、「誰、それ?」と思った方は!
徳川家康の次男ですよ!
三男の徳川秀忠より年上ですよ!
なんと、秀吉の「秀」と家康の「康」の字、2人から一字ずつもらっていて、名前的には最強!!
家康の次男でありながら、秀吉の養子に入ったため、なんと2人の天下人を親に持つのです。
ただ、三男の秀忠が将軍になっていることからも察しがつくように…、兄とはいえ身分が低いんですね。
母は正室の下女だったといわれていて、家康の子ではない扱いで生後すぐに預けられたという説もあります。
ちなみに長男の松平信康は若くして自刃するので、実質的には家康にとっていちばん年上の男児になります。
11歳のときに秀吉のもとに行かされ、元服して「秀康」に。
しかし秀吉から結城家に行けと言われてしまいます。
なんてかわいそうな、日陰の運命。。
朝鮮出兵でも、名護屋城で留守役のため出陣はせず。
関ヶ原の戦いでは上杉景勝の迎えだったため戦いにはならず。
武功を上げることもなく、微妙な人生を送ります。
関ヶ原合戦後に越前結城家→松平家、となり、数年後には権中納言になります。
こうして、越前藩(福井)藩の居城として築かれたのが福井城というわけです。
で、これが福井城に建つ結城秀康公!!!
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ズームアップ!
・・・悪意すら感じます(笑)
バックショットも微妙…(笑)
馬のほうが強そう。。。
銅像がある福井城の本丸跡は、現在は福井県庁のある場所。
二の丸や三の丸ではなく本丸が再利用されているのは珍しいです。
県会議事堂、県警察本部などがあります。
朝の通勤時間は登城…出勤する人で溢れています。
本丸と二の丸は、家康が自ら縄張(設計)したといわれています。
石垣の石材は、丸岡城や北ノ庄城と同じ、近隣の足羽山で採石できる笏谷石です。
福井城の石垣は、堀に面したところは打込接が多く、瓦御門周辺には切込接が見られ、この2種類が見られます。
横に目地を通した布積みなのが特徴です。
天守台の石垣は、切込接。
小天守台の石垣が大きく崩れ歪曲しているのは、1948年(昭和23)の福井地震によるものだそうです。
小天守台の脇にある井戸は「福の井」といわれ、これが「福井」の地名の由来となったといわれているそうです。
諸説あり、もとの「北ノ庄」という地名が「敗北」を連想するものとして嫌われ、1624年(寛永元)に3代藩主の松平忠昌が縁起のよい「福の居る場所(=福居)」に改めたという説もあります。
築城当時は、本丸北西隅に68万石の城にふさわしい四重五重の天守が立っていたと考えられています。
すごい!
駅近ですし、福井へ行ったらぜひ立ち寄ってみてください。
そして、結城秀康のことを思い出してあげましょう。
では、今週はこのへんで。
来週もよろしろ~。
萩原さちこ(城メグリスト)
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