歴史モノというのは大体、
勧善懲悪なものになりがちで、
主人公を立てるために、誰かを超絶な悪役に描こうとします。
それはそれで面白いんですが、
やはりそれは、何かハッピーさに欠けてきます。
人と言うのは誰でも欠陥している部分があるので、
いくら悪役でもその欠点を吊し上げるのは可哀想です。
しかし、今年の大河ドラマは、それがない!
敵役はいますが、悪役ではないのです!
お笑いなどと通ずるところがあるのですが、
欠点こそ愛すべき個性、の世界観がステキですね。
さて、その主人公と言えば、
皆さんご存知、「真田幸村」です!
アプリ内の幸村もカッコイイ!
歴史モノを観てると、
やはりそのゆかりの地に足を運びたくなるものです。
ということで、
今回は「真田幸村のゆかりの地」の代表的な場所を、
ざっくりと年表順にご紹介いたします!
まずは生誕地!
これははっきり「ここだ」とはわかっていないのですが、
おそらく「躑躅ヶ崎(つつじがさき)館」の城下ではないかと思います!
ここは山梨県甲府市にあった武田信玄の本拠地です。
幸村の父の真田昌幸は、
青年期に信玄の近習として仕えていたので、
この館の城下の真田屋敷で誕生したのではないかと考えられます。
屋敷の跡地は現在アパートに。
館から徒歩3分ほどでたどり着きます~。
※自撮り画像が多数出現します。
ご気分の優れない方はご注意ください。
続いてご紹介するのはコチラ!
長野県の「上田城」です!
上田でGPS登録すると、
アプリ内で駅前の真田幸村像が手に入りますね。
実のところ、
上田城で主に活躍したのは、父の昌幸でした。
2度に渡る徳川家との戦にどちらも勝利した、
不落のお城として有名で、
本丸跡にある真田神社は「落ちない」ということで、
受験生に人気のようですね。
ところで、
「第一次上田合戦」の時、
幸村は真田家にはいなかったと言われております。
どこにいたかというと、
人質として越後(新潟)の上杉家の下にいたと言います。
「春日山城」の上杉景勝(謙信の養子)に出仕して、
長野県長野市の「海津城(松代城)」を預かったそうです。
そして、その後はいよいよ、
これまた人質として、豊臣秀吉のいる大坂へ向かいます!
人質とは言え、秀吉の近習である馬廻衆として仕え、
天下統一の総仕上げの「小田原攻め」に参陣し、
埼玉県行田市の「忍城」の水攻めに同行したと言われています。
そして、その後、
従五位下・左衛門佐(さえもんのすけ)という位と、
「豊臣」姓をもらっている好待遇を受けています。
しかし、秀吉の死後に起きた「関ヶ原の戦い」に際して、
父と共に西軍につき、徳川秀忠(家康の息子)の軍勢を苦しめたことから、
高野山へ蟄居謹慎の身となってしまいます。
現在は「真田庵」と呼ばれる尼寺となっています。
父の昌幸は、1611年にここで亡くなったと言われていて、
境内にはお墓が建てられております。
幸村は監視下に置かれたものの比較的自由だったようですが、
お金はなく、極度の貧乏生活を送ったそうです。
そこで舞い込んできた話が「大坂の陣」!
幸村は大坂城へ入城して徳川軍と干戈を交えることとなりました。
「冬の陣」では、大坂城の弱点である南方に、
出城である「真田丸」を築き、徳川軍を撃退しました。
真田丸の跡地は諸説あるのですが、
三光神社に幸村の銅像が立っていたり、
心眼寺に石碑が立っていたりします。
そして、「冬の陣」では、
四天王寺の西にある「茶臼山」に陣を張り、
徳川家康の本陣への突撃を3度繰り返しました!
本陣を蹴散らし、家康を切腹寸前まで追いつめたと言いますが、
衆寡敵せず、安居神社で休息中に、
越前松平家の西尾仁左衛門に討ち取られてしまいました。
しかし、その活躍ぶりは、
当時から大評判だったようで、
「大坂の陣」に参陣していない薩摩の島津忠恒が、
「真田、日本一(ひのもといち)の兵(つわもの)、古(いにしえ)よりの物語にも これなき由」
と記しています。
さて、これで終わりではありません!
最後は、山梨・長野・和歌山・大阪などからほど遠い、
宮城県に舞台を移したいと思います!
幸村は討ち死にして、
長男の大助も、大坂城で亡くなりました。
しかし、幸村の血は絶えておりません!
幸村の次男の「大八」と三女の「阿梅(おうめ)」は、
仙台藩の伊達家の家老である片倉重長に預けられ、
「白石城」で養育されているのです!
その後、大八は「片倉守信」と名乗って仙台藩士となり、
阿梅は何と重長の妻に迎えられました。
そして、仙台藩士として幕末を迎え、
現在の第14代御当主の真田徹さんへと繋がっております!
皆さんも、
しろくろジョーカーを旅のお供に、
真田幸村ゆかりの地へ訪れてみてくださいませ~。
よってくだんのごとし。
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