[前編]一生付き纏うもの、一生付き合っていくもの。 | 白黒オレオ日誌

白黒オレオ日誌

~白黒さんとキジトラさんと飼い主の愉しいたのしいひとり言~



これはオレオさんの遺影イラスト。生前の母からのリクエストで描きましたが、大好評?でした笑

ちなみに、これは水彩絵の具で先に紙媒体、アナログの絵を完成させ、パソコンに取り込み、Photoshopで加工してデジタル化しています。


今回は、私の障害についての話。

20歳ぐらいかな?知能テストを大学で受けて、正式に発達障害(ADHD)がわかりました。
言語優位?とかだっけな、
①日本語のテストとか、②数字を逆から読んだり色々するテストとか、③シートの上に書かれた同じ記号を書いていくとか、④パズルをするとか

他にもあった気がするけど、あんまり覚えてない…

私は ①と④が非常に出来がよかったです。

②と③は大破滅大爆発チーンって感じでした。

思えば大学の試験のマークシート、上手く塗れなくて、あれ?なんかおかしいな?と思いながら提出。
結果、偏差値35の大学に落ち、偏差値42の大学に特待生で入学というよくわからん事態が発生していました。

で、この①〜④(多分他にもテストあったぜ‼️)のできるできないのばらつき、凹凸の激しさで、発達障害を判断します。(だった気がする)あとはテストの取り組みの様子とか色々総合判断…


もともと高校の時から病院でADHDの診断は受けていて、治療薬としてコンサータやストラテラ、インチュニブなど色々試して飲んでいましたが、インチュニブは多少効果…ある…???? うーん、ストラテラは要らんなあ、コンサータ?無いと生きていけない‼️
と言う感じでした。
この頃は両親共に
「〇〇(小学校名)受かったやん!障害じゃ無いんじゃ無いの?それって性格じゃ無いの?甘えてるだけじゃ?」

という、大人になってから発達障害が発覚した人がまず浴びせられる言葉のテンプレートみたいなものを言われていました笑笑

最近になって、生前の母にも伝えていたのですが、

発達障害と学習障害がわからぬまま私立小に通ってしまったので(1回目の試験はもちろん落ちました笑笑)、結構ないじめに遭いました。
(小1のころ、今思えば多動と衝動性優位の男の子は問題行動を起こして退学になっていました。キレて椅子投げたとかだったっけな。わたしは不注意と衝動性優勢型なので、ちょっと鈍臭い変わった子という認識。小1の頃の担任も、なんの障害もないから心配はいらないなどと言っていたそうです笑当時はグレーゾーンの子や困りごとがあっても言い出せない子に対しての支援がまだ行き届いてなかったんだな、と元特別支援教育学科的知見。)

まず、学習障害は今通っている病院に行くまでわかりませんでした。本当に、自分の頭が悪いとしか思っていませんでした。

算数が、絶望的にできないというか、特殊な方法でしかできない。

友人関係などでも様々な違和感が積み重なっていたのですが、私が鮮烈に覚えていること。

小4と小6の担任の鬼ババ笑 
ありゃ〜わたしは、大学を中退してるとはいえ、一度教育をかじった者として、教師失格だとはっきり言えるよ。

割り算か掛け算か、忘れたけど、繰り上がり繰り下がりとか?ある筆算の授業。

わたしのできる計算、数字は"指"のみです。ちなみにこの指の10本を駆使して、数ⅡBまでは理解できました。

まず、普通の子への説明だと、筆算が全く理解できない。
ので、オリジナルの方法を編み出しました。
ちなみにこれは今話題?のさくらんぼ算と似通ったものがあるらしい、と、塾講師の友達(なお友達ですが4?歳笑)に言われました。

これは説明するとめんどいので割愛。

そしてこのオニババ先生、
「なんでこんなことするの?!なんで言う通りにできないの?!私のいうこと聞かないんならうちのクラスにいりません。」
と、当時10歳の私に言い放ち、私は
「だってこうしたほうが、わかりやすいとおもいます。先生の言っていることはわかりませんでした。」
と、当時場面緘黙でありながらも、出ない声を絞り出してSOSを伝えました。

そしたら、「出ていって!うちにはいらない!」
と。先生の方が癇癪おこしてね?笑と今になって思います笑
あれがあの当時どれほど怖かったか…

そして、言うとおりにして出ていくと、今度は頭を引っ叩かれ、また仰々しくクラス全員の前で、
「そんなことをしているから、あなたには友達がいないし!成績も悪い!クラスの面汚し!」
的なことを言われました。

ちなみに、この話は親との面談などでは一切出なかったらしいです。筆算ができないと言う話まで。ただ、授業への取り組みが不真面目だ、と。

わたしは当時、両親に学校で起こった出来事を話すことができませんでした。なぜかはわかりません。 

勉強ができない、芋臭い、天パ、変なメガネ、オタク、喋らないし喋ってもボソボソ喋る、得意の小説やアニメの話になるといきなり饒舌に語り出す。

小さな幼いこどもたちからすれば、かっこうのいじめの的です。

と言っても、このオニババ、みんなもオニババと認識し陰で揶揄っていたので、「クラスでの」わたしのいじめは大したものではなかったのですが。


一番の心の傷は、小3から小6にかけての吹奏楽部。
もうあまり記憶にも残っていませんが、ほんとうにほんとうに行きたくなくて。
先生が怖くて、当時クラリネットを担当していましたが、替えのリードを買いたいとも言えず。
リードは消耗品なので、それではまともに吹けるわけもなく。

先輩たちに一斉に「ちゃんとやれよ」と詰め寄られたり、
職員室のお誕生日席に鎮座する校長先生、兼吹奏楽部顧問に呼び出され、「なんで真面目にやらない、なんで合奏に出なかった。あなた以外は真面目に出席してた。」と、長々と叱られ、反省文を何枚も書かされました。

小6になる前、パートリーダーを決めようというときに、ジャンケンになり、私が負けてしまい、パートリーダーになった時、あの時の先輩の目、ニヤニヤ笑う同期。

今の私ならあの時の教師陣全員まとめて教育委員会に通報して全力で戦うし、裁判沙汰でも構わない、くらいの強さを持っています。
あと、中学の頃机にノリを塗って教科書をボロボロにされたこともありますが、今の私が昔の私なら、法的措置で倍返ししております。
ですが、昔の私には、昔の私の生育歴では、そんなこと思いもつかないし、そんな勇気はありませんでした。それが当たり前でした。

それでも数少ない友人が心の支えでした。その友人も、いじめに遭い、不登校になってしまいそのままですが。


ここまでが、私の1番辛かった、そして、二次障害である統合失調症(寛解済み)と醜形恐怖症、摂食障害(共に完治済み)、双極性障害(現在)を醸成した一番の根源ではないかと考えます。

統合失調症は、小中学生の頃から、微妙な距離で人が笑っていると、「私の頭の中をのぞいて笑っているんだ」とか、
高校の頃だと、美大受験用の画塾に通っている頃、帰り道の電灯が火事に見えて、止めてある車はこちらに走り出してくる。泣きながら自転車を爆走させていました。

醜形恐怖症と摂食障害に関しては、高校でメンバーが入れ替わり、穏やかな暮らしをしていたものの、恋愛感情的に好きな先生ができ、「ブス、デブ」と言われ続けていた私はダイエットやメイクを始め…その後はもう想像できるかと思いますので書きません。

学童期、思春期の出来事は、障害のある無しに問わず、その後の人生に大きく関わります。

人生です。人の生です。

教育に携わる人間は、それを自覚しなければならない、と、大学にいるときはわかっていたのではないか…
なぜ、教師による生徒への問題が後をたたないのか。

教育学部にいるとき、「部活の先生がしたいから」「青春に携わりたいから」
という、一見綺麗に見える理想を、危険視し、そして、軽蔑し、そして、学校をさりました。

まあ、一番の理由は、私の頭では教員採用試験も通らないし、まず、大学に反発しすぎて模擬授業とか好きな授業しか行ってなかったから、単位が足りてなかったんですが笑

教員も人です。好き嫌いはあります。

ですが、仕事に私情を挟み、そして、仕事の結果に大きく影響させる人間を、普通の社会なら許容しません。

学校とは、狭い箱庭です。その箱庭の風通しをよくするのが、教員の日々の新しい知識を得る努力、その新たな知見から古いしきたり壊していく勇気、そして、他の分野での経験です。

と、私は思っています。そう簡単なことじゃあないんだけどね。

でも、少なくとも私の高校の教員たちは、その努力を惜しんでいなかったと思います。

だからこそ、摂食障害や醜形恐怖症、こんな私にも価値があるんだ、と、自信を保つための援助交際などあったものの、その面もひっくるめて受け入れてもらい、支援してもらったため、笑顔であの一貫校を卒業できたのだと思います。


次章が本題です(ファッ?!)(前置き長すぎじゃね?)
一生付き纏う、付き合っていく、障害に対しての私の思いと知見です。


長々とした駄文、お読みいただきありがとうございました。
次章もぜひ…笑


娘、ももちゃん。