しろくまです。🐻
友人に、昔セラピストだった女友達がいる。
私は今の自分は昔よりは嫌いじゃないのだけれど、ふとした時にとても自分を嫌いになり、自分を粗末にしてしまうことがある。
少し大げさかもしれないが、昔聞いた言葉で
「自分を大切に出来ない人は、他人も大切に出来ない」
という言葉が、ある意味自分の人生の課題なのではないかと思っている。
歳を重ねて、何度もその言葉の真意を自分なりに考えて、それぞれで違う考えが生まれきた。
一歩進めば二歩下がる、牛歩で進んでいるように思いながらも、もしかしたら後退しているのかもしれない。
彼女とは色々な自分の価値観を共有しても、不思議とケンカにならない。
毎回お互いの考えていることに発見があり、電話だと平気で5時間とか話してしまう。
そんな彼女にその質問をしてみたことがあった。
そして、私なりに思うことも話してみた。
彼女は、少し考え込んで私に言った。
彼女「言っている事はわかるんだけれど、私はなぜあなたがその答えに行き着いたかを知りたいかも😊」
私にとって、彼女は不思議だ。
でも、私になかった着眼点を持つ彼女と話すのは楽しい。
そして、彼女は聞き出す事がとても上手だ。
私が彼女に言っていない事とすれば、自分のセクシャリティに関することくらいだ。
彼女と話していて、私は自分の記憶に蓋をしている事がわかった。
幼い日の父との思い出、自分のセクシャリティの事。
思い出したくない嫌だと思う記憶を、臭いものには蓋をしろと言わんとばかりに見て見ぬふりをしている。
彼女「良いんですよ、嫌な記憶はほじくり返さなくても。
どうしても見なければいけない時が来たら、自ずと見ることになりますから。」
そういうものなのだろうか。
でも彼女の言う通り、確かに今の自分にはあまり必要がないと思えた。
そして私は彼女に、私自身について尋ねた。
私は私自身が人に何を求めていて、自分がどうありたいのかよくわからないと。
仕事の人間関係や友人、今まで好きになった人、お付き合いしてきた人がいたけれど、私は彼らに何を求めていたんだろうか。
条件的なことを上げれば、そりゃ沢山ある。
でも、根本的な部分があるはずなのだ。
彼女は、簡易的ですがと前置きをした上でカウンセリングをしてくれた。
体をリラックスさせ、いくつか質問された。
簡単なようで難しく抽象的に聞こえるその質問に、私は自分の意志って本当にあるのだろうかという錯覚に陥った。
彼女「それではまたお聞きします。あなたは、人に対してどうありたいですか?
一つ、自分の中で1番を教えてください。」
どうありたいか。
これも簡単なようで難しい。
誠実、真面目、正直、素直、礼儀正しく…
なんだかどれも似たような言葉に思えてきてしまう。
でも、よく考えるとその選択の動機に「人から見られている上で」という言葉が私の脳裏をかすめた。
そうじゃないんだよな、きっと。
人の目とかじゃなくて自分がどういたいのか、どうありたいのか。
私「…私は人に、優しくありたいな。」
色々浮かんだが、自分でもそれが1番しっくりきた。
それを聞いた彼女はほほえみながら、私に言った。
彼女「そうですよね、優しくありたいですよね。
大丈夫ですよ、自分自身でちゃんと分かっているんです。
自分と向き合って出たもともとあった答えなんです。」
確かにそうかもしれない。
だから、ずっと人と関わる仕事をしてきたのかもしれない。
彼女「そして、それは他人からにも同じことが言えるんです。
あなたは、人から優しくされたい。
人に優しくできて、人から優しくして貰えたら嬉しいですよね」
心の液体のようなものが、じゅわっと体の中に広がっていくような気がした。
それは体の中を駆け巡って、手足を暖かくしているように思えた。
言葉だけだととても単純なことのようなのに、実際にそれをしてみると凄い時間をかけて自分を見つめていたように感じた。
彼女「あくまで簡易的ですが、何かのお役に立てたら良かったです。
そしてその答えに関して、私は一切関与していないんですよ。」
カウンセリングと称したそのやり取りで、確かに彼女は誘導やアドバイスはしていない。
彼女がしてくれたのは「質問」だけだった。
自分自身の中にすでにあったんだな。
今まで付き合ってくれた人たちが、優しくなかったわけじゃない。
どちらかというと、優しい人達だったと思う。
でも、彼氏としての括りではなく、人として優しくなりたかったし、優しくしてもらいたかったのかもしれない。
勿論別れてしまった理由はそれだけではないのだけれど。
人に何かを頼むこと、して欲しいと言うこと、求めること。
昔から全部苦手だった。
自分の望みを放棄することが多かった。
「自分を大切に出来ない人は、他人も大切に出来ない」
少しずつ。
放おっておいてしまった自分を知ることから始めよう。
おしまい。