こんばんは、しろくまです。
最近TVでよく見る同性婚とLGBT理解増進法のニュース。
一昔前まではLGBTの内容に触れる話題がTVで流れる度に気まずくなったものだが、最近はそこまで特殊なものにも感じなくなってきている。
これもひとえに、声を上げてくださった先駆者の皆様の賜だと思っております。
ありがとうございます。
ただ、個人的にある政治家の
「私はいつ愛する人と結婚ができるようになるんでしょうか」
という言葉について違和感を覚える。
それを言った政治家について、過去のゴシップに対してあまり良いイメージが沸かないからかもしれない。
同じLGBT当事者として、
「我々は弱い立場だ!だからそれを当たり前に受け入れてくれ!」と、
相手に対して、弱いものは守られてさも当然!というように見えてしまう。
※一個人の見え方です。
小学校の時、とても口の強い女の子がいた。
その子は、自分は女の子だから重い物は持てない、重い物は男の子が持つのが当たり前でしょう?というような子だった。
私はこの構図については合理的だと思う。
もちろん女性よりか弱い男性もいれば、逆もしかりだが、要は事柄に適した
人物がそれをするような役割分担は、社会生活でも普通にあることだ。
ただ、その立場を利用してるように見える事に対して、もやもやするのだと思う。
私も同性婚が当たり前に世間に受け入れて貰えるなら嬉しい。
今現パートナーがいるわけではないが、将来の選択肢が増えることはありがたい。
そしてそれが当たり前として、次世代のLGBTの希望になるのであれば
とても喜ばしいことである。
年齢は関係ないかもしれないが、若い頃に自分も性的趣向に囚われずに
好き人と一緒になれると思える事は、とても希望がある。
そんな政治家の発言をTVで見ていた父が、
「清々しくていいじゃないか!認めてやれば良いじゃねーか。」と言った。
私はまたもやもやする。
私がゲイとわかった高校3年生の時、
「そういう相手がもし出来たら、もううちの敷居は二度とまたぐな!」
と言い放った父。
「もし、このど田舎で私はゲイです!と言い振る舞って生活したら、貴方は全力で止めるでしょうよ…」というのが私の本音だった。
ただ時代は変わる。人も変わる。
私も、あの時はこうだったと腹を立てるのではなく、考えを変えてくれてありがとうと思うべきなのだろう。
むしろ過去に囚われているのは自分なのかもしれない。
父には父の考えがあるのだろうな、と良い方向に考える事にした。
受け入れて欲しいと思うなら、自分自身もそうあるべきなのだと思う家族団欒の食卓なのでした。