善意(愛)と思って発したものが
受け取るほうにとっては毒でしかなかったり

逆に
毒だと分かって相手に向けて放ったものが
結果的に思わぬカタチで相手を助けたり

って事がある



善意を、悪意として受け取ってしまったり
悪意が、結果的に善かった✨になったりする
それがヒトの世界



だから本当は、善とか悪とか
決めつける必要はないのだと思う


でも
自分が渦中にいるときは
そんなふうに見るのは不可能だし

側で見ている立場のときも、ほぼ不可能かな

もっともっと引いて引いて遠くのほうから
ずっと上のほうから見たとき

またはずっと後になってから
振り返って見たときに ようやく

そのことが見えてきたりする



それらを決めつける『癖』を手放せたら
私たちは不安や不快や悲しさや苦しさから
解放されるのかもしれない


その『癖』を初期設定で埋め込まれているのが
ヒトだから

それはそれで経験したかったこと
なのかもしれない




善意のつもりだったのが
毒になっていたというのは
親子間で起きがちなこと

いま私が、我が子のために
良かれと思ってやっている諸々が
子にとって毒にならないという確証は
残念ながら、ナイ真顔


そこに
あなたに幸せになってほしいという
愛が
まちがいなく、あった

ってことだけは
受け取ってくれると良いなと思う

それも親のエゴかな





あと
これは究極な捉え方

私は何年か前に聞いたとき
ブルっと震えるような 世界が反転するような🫨
感覚になった



だれかが
相手を傷つけることや、おとしめること、
いわゆる攻撃
を意図してやったとして

それさえも
愛からだった
って事になるのだ

(自分への、愛)



だから

この世界には

愛しか無い

のだそう




そんな境地に

なれれば

良い




初めて聞いた時は

そんなもん
なりたくないわ!
なれるわけがない!

と思ったけど

気づけば今は少し
その境地に近づいている

「そんなもん、なりたくない」のひとは
今は、そのままにしておいてあげるのが
自分への愛





究極すぎるけど
目指すのは そういうこと