振り返ってみると、だいぶ長いことニュースをまともに見ていませんでした。

 

パソコンを開くと、ニュースが自動的に出てくる仕様なので、久しぶりにまともにニュースを見ることに。

 

新聞を読め!

という話がありますが、どうにも不信感が否めなくて…

 

たとえ誤報をしても、悪びれないマスメディアに対して、湧き上がる念は猜疑心ばかり。

大々的に誤報した後でさえも、お詫びして訂正するのは小さくちょっとだけでしょう?

同じくらい大々的にお詫びして訂正してくださいよ…と思う。


誤報によって著しく低下したイメージが改善しないままというか、この報道は間違っていたかもしれないけれど、こういう話もありますよ。

この人は、火のないところに煙は立たない人なんですよ。

仕方ないですよね。

完全に間違いとは言い切れないですよね!!

と、正当化するような行為で追い打ちをかけ、さらに貶めるようなこともある。

そんな印象です。

 

あくまでも個人的なイメージですし、すべてのマスメディアがそんなに悪質ということでもないですけれどもね。

一部の悪質なマスメディアの影響で、どこが信用出来て、どこが信用出来ないのかがわからなくなってしまっている。

溢れる情報全てに対して「鵜呑みにしてはいけない」と、ガードしている状態の自分がいるんですよね。


悲しい…😢

 

ニュースを見て、記事を書きたくなるのは、ニュースを見て、何かを感じる”反応”が起きているからなので、真偽のほどは別問題なのだな。

と、今回認識しました。

 

記事を書くにあたり、内容をどうするか困るとき、能動的に記事の素を探す必要があります。

その行動形態だと、わざわざ探してまで書く必要があるのだろうか?

と、いう思考に陥り、精神的に疲弊することになります。

 

最初から、日々の習慣としてニュースを見るようにしていれば、自然と記事につながる。

と、いう大切な事実を、いつのまにか失念していました。




一時期は、"特定の内容"に関して積極的に毎日情報を集めて、自分なりに考えて、有り余る思いの丈を記事にぶつけていましたからね。

 

興味が失せたとか、熱が冷めたとかそういうことではないのです。

そもそもが、そういう類の問題とは異なりますから。

 

理屈ではない何かがそこにあり、本人たちも意図しない空気がある。

魂の繋がりというだけで説明は十分なのに、より確実な根拠を探すことに躍起になっていました。


ただただ、前世で結ばれなかった二つの魂が、時を超えて結ばれようとしていた。

それ以上でもそれ以下でもない。

 

あの時の二人のあの言動がどうのこうのと、裏付けに必死だったのは、あの時期には必要なことだったのかもしれないです。

何とかしなければいけない。

そんな使命感に突き動かされて我武者羅に走っていました。

 

時に、事実と異なる内容を想像の話として書いては訂正したり、迷走することがありました。

行動理念や、全体的な言動に関しては概ね自分の正義の下にあったと言えます。

 

一方で、負の感情を引き寄せたり、煽ったりしてしまう記事を公開したことがあったのもまた事実だと認識しています。

 

わたくしの中にある真実や、想像、予想、感想、時には妄想を書くことで、精神の安定を得ようとしていたのですから、副作用として起こりうること。

元より、ブログとはそういった性質のものです。

人間ですから、改善点はあって然り。

時々振り返ると、ひどく自己嫌悪することがあります。

 

元より、どうにかしなければいけないけれども、何をどうしてよいのかわからない、という焦燥感を持て余してブログを定期的に書くようになりましたから、焦りばかりが先行していた部分が多少なりありました。

 

それでも、都度訂正すべきところは、訂正し、間違ったことは間違ったと認め、己の中にある真実は何を言われても信じて貫いてきたつもりです。

 

あの二人に関する想いを、敢えて書かないようにしてからどのくらいの時間が経ったでしょうか。

今年に入って、ようやく本当に落ち着いたな、と、感じています。

落ち着いたな、というのは、わたくしの内面が、です。

焦燥感に駆られて、何かをしなければいけない。

何をどうすればいいのか。

と、いう感覚が、全くなくなったわけではないけれども、落ち着きました。

 

運命は、川の流れのようにあるがままに。

自ずと辿り着くべき場所へ、流れ着くもの。

 

元より、わたくしの使命は見守ることです。

 

魂の繋がりから、時折感じる痛みや、困惑、喜怒哀楽の感情があります。

それは、深層心理よりもさらに深いところというか、あまり感覚として明確にならないことが多いものですから、本人すら自覚していないかもしれない。

当人の立場に立って考えれば、日常に満足して幸せを感じて生きているかもしれない。

そこへ、ある日突然見知らぬ人から。

「魂が悲鳴を上げて、本来結ばれる人を求めています。」と、言われたところで、ピンとこないでしょう。


彼らに限ったことではありませんが、その幸せは、本物ですか?

と、問われた時に、過敏に怒りの感情を露わにするような反応や、迷いや揺らぎが垣間見えるようなら、自らに幸せを言い聞かせているまやかしだと言えるでしょう。


2人が共にあり、その空気で周囲すら幸せな気持ちになるのは、魂が喜んでいるからです。

それは空気というよりは、波動として伝わるものです。

 

いずれにしろ、誰が何を言おうと、干渉しようがしまいが、その時と場所へ自ずと進むのが然り。

と、わたくしはずっと感じています。

 

追伸:

 あくまでもわたくしがそう感じているだけのことですが、1人はもう長い間ずっとずっと流れに必死に抗おうとしており、もう一方はどこに流れつくとしても、常に流されるままにあるがままでいる。

そんな風に感じています。