〈2019年11月3日〉  

今日の御朱印は積翠寺で頂いたものです。

積翠寺は行基菩薩 (668~749年) により創建されたと伝えられる臨済宗妙心寺派となります。

鎌倉末期に夢窓疎石の弟子・竺峰 (じくほう) 和尚中興による禅寺であるとのこと。

大永元年 (1521) 駿河の今川氏親 (義元の父) の部将、福島兵庫正成の軍勢が甲州に侵入し、飯田河原 (甲府市飯田) で激戦となり、信虎夫人 (大井夫人) は要害城へ避難する際、積翠寺で11月3日男児を産んだとのこと。名前を勝千代といい、後の武田信玄公であるとのこと。


要害城は、躑躅ヶ崎館 (武田氏館) の詰城として要害山に築かれた山城です。要害山は平成3年に国指定文化財 (史跡) となっております。

要害山の南麓に積翠寺があります。



「積翠寺由緒書覚」には信虎の築城した要害城 (積翠寺城) のある要害山もかつては寺領であったと記されているので広大な寺領があったものと思われるとのこと。

信玄公26歳の夏、後奈良天皇の勅使として甲斐に下向した三条西大納言実澄と四辻中納言季遠の2人を積翠寺に招き、東光寺の鳳栖・法泉寺の湖月ら十数人で倭漢連句の会を催し、その1巻が積翠寺に寄進されたとのこと。


境内には、勝千代 (信玄公) 産湯の井戸、天神を祀り勝千代 (信玄公) の産湯を捨てて大成を祈願した産湯天神、夢窓国師築庭、武田不動尊が祀られております。




《御本尊》釈迦如来



勝千代 (信玄公) の産湯の井戸があります積翠寺。この地で生を享け戦国武将として名を轟かせるまでになった信玄公。

信玄公の赤ちゃん時代、とっても可愛らしかったことでしょう。現在でも残されております産湯の井戸を眺めておりますと、赤ちゃん時代の信玄公を思い描き心が和みます。



積翠寺の境内は、気高く慈悲深いお力に満ちております。ぶれない誠実さ、さりげなく漂う慈悲心・凛々しさ、ふわりと伝わる情の深さ、格式ばらず自然体で今なお歴史を刻んでおります。





積翠寺の御朱印です。




今日は積翠寺の御朱印からお力を頂いてください。


今日も読んでくださりありがとうございました。