〈2019年8月18日〉

今日の御朱印は、武田信玄公墓所があります恵林寺で頂いたものです。



恵林寺は臨済宗妙心寺派の名刹とのこと。

元徳2年(1330)に、甲斐牧ノ庄の守護職をつとめていた二階堂出羽守貞藤が、夢窓国師を招き、自邸を禅院とし創建しましたとのこと。


武田信玄の尊敬を受けた美濃の快川和尚の入山で寺勢を高め、永禄7年(1564)には、信玄自ら寺領を寄進し当山を菩提寺と定めましたとのこと。




恵林寺は広い境内となります。
赤い四脚門(通称赤門)は、国重要文化財となっております。
この赤門は織田信長による焼き討ちの後、徳川家康によって1606年に再建された当時のものとのこと。


悲劇の舞台となった三門は、県文化財となっております。
1582年、武田氏を滅ぼした織田信長の軍勢は、僧・俗を問わず恵林寺にとどまっていた全員を三門に押し込めて火を放ち、百名以上の人々が犠牲になりましたとのこと。
この時、燃えさかる三門の上で、住職であった快川国師が唱えたとされる遺偈(ゆいげ)が掲げられております。

【 安禅不必須山水 (あんぜんかならずしもさんすいをもちいず)

滅却心頭火自涼 (しんとうめっきゃくすればひもおのずからすずし) 】




《意味》

安らかな禅の境地は、必ずしも静かな山水に囲まれる必要はない。

心中の雑念を滅却して消し去れば、燃えさかる火の中に在っても自ずと涼しさを感じるものだ。


唐の詩人である杜荀鶴の「安禅不必須山水滅却心頭火亦涼」からの引用されたものですとのこと。(ふるさと山梨より)



現在の三門は、まさしくその悲劇の現場に建てられていますとのこと。




三門をくぐった正面の開山堂には、夢想国師、快川国師、末宗和尚の三像が安置されておりますが、末宗和尚は快川国師の弟子で、信長による焼き討ちの際、快川和尚の命を奉じて三門から飛び降りて火を逃れ、後に徳川家康に命ぜられて恵林寺の再興を成し遂げた方とのこと。




恵林寺庭園は国指定名勝となります。
夢窓国師の築庭となる池泉回遊式庭園は、国師が自ら石を運んで作庭に携わり、石立僧と自称していましたとのこと。
 

明王殿には、信玄が生前に自身の姿を対面で摸刻させたという、信玄等身大の不動明王坐像(武田不動尊)が安置されております。
調査の結果、亡くなる1年前につくられたことが判明したそうです。


明王殿の裏に武田信玄公墓所がございます。
1573年4月12日、53歳にて陣中において病没。遺言に従って三年間その死を秘密にした後、快川和尚を導師として恵林寺で葬儀が行われましたとのこと。
現在でも、恵林寺では4月12日に信玄公忌として毎年供養が行われていますとのこと。

信玄の墓所の後ろには、武田二十四将を含む武田家臣の供養塔が約七十基並んでいますとのこと。

恵林寺には、柳沢吉保公 定子夫人墓所もございます。





恵林寺は悲劇の過去を歴史に刻み、武田信玄公の菩提寺としての責務も負っております。

古刹としての地位を維持し、後世にもその歴史を伝え続け、存在感を衰えさせずに、人々を惹きつける魅力が不可欠なのです。



ご住職が立ち位置を誤って欲に走り、波動の低くなってしまったお寺も見ました。



恵林寺は今でも古刹としての名に相応しい地位を存続しており、境内も美しく保たれ、高い波動を漂わせております。


こちらには何度か参拝しており、何度目かに境内で白猫さんに出会いましたが、お力のある猫さんです。

最初白猫さんは離れておりましたが、走って来てくれたので撫でさせてもらいました。

この白猫さんは普通の猫ではなく、恵林寺を見守るお役目ですね。

かなり霊格が高く凛としていました。





恵林寺の御朱印です。





今日も読んでくださりありがとうございました。