『ほかげ』2023,塚本晋也



漸く鑑賞した。その二週間後二回目の鑑賞。

2023年11月封切りという『ゴジラ-1.0』とほぼ同時期の公開に偶然ではない切実な現在が如実に反映している。大東亜戦争敗戦後のバラックで営まれる擬似家族ごっこと落とし前をつける男の社会性という設定は驚くほど完全に一致している。まるで『ゴジラ-1.0』の公開を待って本作品をぶつけてきたかのようだ。

監督はあの塚本晋也である。わざわざ「あの」と銘打ったのは、塚本が『シン・仮面ライダー』で緑川博士を演じた人物だからだ。本作品は前述した『ゴジラ-1.0』との設定の完全一致と共に『シン・仮面ライダー』若しくは、庵野秀明を経由して遥かに岡本喜八に通ずる類縁性を意識しない訳にはいかない。

まず手始めに、庵野/岡本との類縁性について述べる。本作品の導入から前半部は全てバラックセットの室内撮影である。ビスタサイズの画面に画角はバスト・ショット以上、ほとんどがクローズ・アップの人物の顔でショットが繋がれている。印象的なのは寝転がる全身を晒す趣里の屈曲の身体のショットと白く不気味に煌めく白い腕のショットだ。この寝転がる人物と腕のショットは本作品全てを通じて重要な映像モチーフとして機能していく。

そしてここで強調しておきたいのが、1ショットの短さだ。ほぼ5秒以内。長くても10秒はかからない。別にタイム・キープしている訳ではないが、時に唐突に、時に軽快に、時に何かを隠蔽し、時に鑑賞者を置いてきぼりにする、ショットの短さ。撮影と編集を兼任する塚本の幽玄すら感じさせる自在なショット群に加えて肩なめのリバース・ショットの多用も注目に値する。たとえば『彼方のうた』の杉田協士があれほど嫌った二人の人物を対面配置させ切り返す会話ショットの繋ぎをここで塚本は執拗に寧ろこの対峙表現が不可欠なのだと言わんばかりに繋ぎ切っている。しかも先に述べた通り1ショット、1ショットは極めて短い。

『ほかげ』に先行してこれらの短いショット群を編んで作られたのが、戦闘シーンでiPhone数十台回したと言われる庵野秀明の『シン・仮面ライダー』に他ならない。この短いショット群の繋ぎという一点において、塚本晋也と庵野秀明は正統な兄弟関係にあり、『激動の昭和史 沖縄決戦』の作者である岡本喜八を父親とも仰ぐ存在だ。因みに岡本の『…沖縄決戦』の特撮監督は中野昭慶であり、『ほかげ』には1ショットだけ極めて重要なミニチュアの特撮ショットが挿入されている。

次に『ゴジラ-1.0』との対称性について述べる。『ゴジラ-1.0』が浜辺美波、神木隆之介、拾われた乳児という三者が擬似家族を形成するように、本作品の趣里、河野宏紀、塚尾桜雅の三人には血縁関係も婚姻関係も無い。偶然その場に行き合わせたに過ぎず、三者の関係はファンタジックなおままごととして描かれている。また河野の場合は明確に可視化されてはいないが、神木同様戦場での厳しいトラウマを抱えている。

神木がトラウマの解消と決着すべき対象がゴジラという戦争の残渣のメタファーだったのに対し、河野はトラウマに立ち向かうことができずにひたすら消耗すると同時にその決着できない蓄積するエネルギーを泥酔と趣里と塚尾に対する暴力として顕在化する。

また『ゴジラ-1.0』で浜辺が戦後民主主義の象徴である銀座の華やかなデパートガールとして働き始めるのに対し、趣里は「昼間からの仕事」を始めると言いながら、一向にその気配がなくバラックの食事と売春兼用の宿に居続ける。終いには後から伝染病罹患が暗示され部屋の鏡台の前で呆然と座り込み佇むショットで前半部は終了する。

後半部は打って変わってオール・ロケーションの開放感に溢れる。途端に田園を歩く二人のロング・ショットに驚かされる。しかしショットはここでも依然として極めて短い。

ここで再び『ゴジラ-1.0』と比較してみよう。神木が過去の戦場のトラウマに直面しそれを乗り越えようとする障害物として現れるのが言わずと知れたゴジラそのものである。それに対して本作品の河野は結局のところ直面することができずひたすら自閉し自己の坩堝のような内省に耽溺し外部へ向かうのは擬似家族ごっこを成立させている妻と息子への暴力であり、実際この暴力により家族は崩壊し自らも姿を消す。

代わりに登場するのが塚尾の持つ拳銃に異常な執着を見せる森山未來だ。彼は塚尾に真っ当な仕事を斡旋する他所のおじさんと呼ばれている。本作品において働くことも極めて重要なテーマとなっている。彼は趣里にアジールとしての売春宿を追い出された塚尾を外に連れ出す。それは郊外の田園であり、森山が塚尾に与えた仕事はある邸宅の初老の主人を森山のところに連れ出して来ることだ。そこでは塚尾の拳銃を奪った森山が呼び出されたかつての軍隊の上司である初老の男に銃口を向けるのだ。実際かつての戦場でこの上司から受けた数々理不尽な命令と共に死んでいった戦友の名を挙げながら森山は元上司の身体に銃弾を数発撃ち込んでいく。そして仕事を終えた森山は塚尾に対価として金銭を支払おうとする。

最後のシークエンスについても触れておく。まず『ゴジラ-1.0』から。ゴジラへの神風アタックをギリギリ特設したパラシュートで脱出した神木は彼を苛んだ戦場のトラウマを乗り越え陸地へ帰還する。そして音信不通で死亡が濃厚と予測された浜辺の無事を聞き奇跡の再会を果たす。擬似家族ごっこの再スタートを予感させるエンディングとなっている。これに対して、本作品はどうか。ニセの母親である趣里の病状は更に進み部屋の襖は固く閉ざされ最早音声でしかコミュニケートしない。ニセの父親、河野は雨露ががしのげる地下トンネルに屯している膨大な帰還軍人たち同様にひたすらに自閉内向することを止めない。

以上、ざっとこんな比較だ。設定が同一なのにどうして説話構造がこれほど違ってしまったのだろうか。単純化し図式化すると以下の通りとなる。

『ゴジラ-1.0』
人数:3人
場所:ニセの父親の実家
構成:神木、浜辺、赤ん坊
外来者:戦争未亡人となった近所のおばさん
ニセ父親の職業:機雷除去
ニセ母親の職業:デパートガール
戦争のトラウマ:神木のゴジラに対する神風アタックにより戦争完全決着とトラウマ解消
エンディング:再会による擬似家族の継続

『ほかげ』
人数:3人
場所:ニセの母親の職場兼住居
構成:趣里、河野(河野の代替父親としての森山)、塚尾
外来者:セックス目的のヤミ酒ブローカー
ニセ父親の職業:無職
ニセ母親の職業:売春
戦争のトラウマ:森山の元上司へ射弾による戦場での怨の解消
エンディング:?

ここから敢えて空欄にした本作品のエンディングについて述べる。ここから先は私自身の見解を交える。

森山と別れた塚尾は元のバラックに戻る。趣里の容態は更に悪化しており、奥の部屋襖は既に固く閉ざされている。しかし意外にも戻った塚尾には優しい言葉をかける。塚尾はやがてバラックを出て闇市の雑踏を彷徨う中で意を決してうどん屋の押し掛けアルバイトとして黙々と食器洗いに精を出し、遂にはその対価を得る。そしてその賃金を握り締めて趣里に何かプレゼントしようと闇市を彷徨するところで終わる。

この後半部、男たち、特に森山未來は戦場でのトラウマを乗り越えられたのだろうか。『ゴジラ-1.0』の神木隆之介が笑顔で凱旋再上陸を果たし、美波とステレオ・タイプの絵に描いたような感動の再会で物語が閉じられるのとあまりにも対照的である。

最初のニセ父親、河野宏紀がずっと戦場のトラウマに囚われ続ける様に、二代目ニセ父親、森山も本来簡単に殺害可能であった元上司に重症を負わせた程度の復讐に留まり、元上司も戦争の犠牲者なのかもしれないと曖昧な言葉を残して地面に俯せるばかりだ。これは森山の戦場での積もり積もった怨を晴らしたに過ぎず、河野同様戦場のトラウマを解消したとは、とてもじゃないが言い得ない。

ここに監督の塚本晋也と山崎貴との作家性における決定的で埋めようのない絶対的な差違が如実に表層に表出している。

あの戦争とは一体なんだったのか。

凡庸極まりない歴史修正主義者、山崎貴は、平成不況の直前ぐらいから徐々に顕在化し始めたヘンテコ歴史観のイデオローグたちと安直に通底しており、しかもノー天気で無邪気な楽天主義と共に、ゴジラに神風アタックをやってみせ軽々とトラウマを解消してみせる。まるで墨塗り教科書と青空教室、欺瞞に満ちた戦後民主主義、安保闘争や全共闘、東京オリンピック、血みどろの内ゲバやテロル、三島割腹と大阪万博、アイドルとオタクの成立、バブルとオウム、経済大国ニッポンの大東亜戦争並みの戦線拡大とバブル終焉と人口減高齢化による第二の敗戦…『ゴジラ-1.0』はこれらすべてを無かったことのようにすっ飛ばし、今なおゴジラに仮託するアメリカ合衆国と戦い続けているのだ。ただしアメリカ合衆国とは一体何なのかはここでは敢えて触れない。またこの作品が子供向けだからなどという戯言は理由にはならない。

さて本作品はどうか。

前述した通り、河野も森山もトラウマを乗り越えるどころかその曖昧で不可視で鵺やもののけのような何物かに囚われ続けている。すなわち先の大戦なるものは本作品でずっと継続しているのだ。それは男たちに限ることではない。趣里を、銃後の守りを強要された女たちをなお罹患させるほどの強いインパクトを持っている。あの戦争は終わってはいない。終わることなく今もなお続く戦争。戦中に留まり続けている、今日現在も。

闇市からトンネル内の吹き溜まりのような鬱々たる巣窟のニセ父親に宛てた小学算術の教科書を届け、闇市の喧騒の中でニセ母親に宛てた衣類を求める、唯一塚尾の姿だけが家族の再構成に向けた絶望的でシジフォス的な営為である。

  予告編



  作品データ


※以下出典根拠映画ドットコム

監督
塚本晋也
脚本
塚本晋也
撮影
塚本晋也
照明
中西克之
美術
中嶋義明
美術デザイン
MASAKO
衣装
佐々木翔
ヘアメイク
大橋菜冬
編集
塚本晋也
音楽
石川忠
音響演出
北田雅也
助監督
林啓史
ロケーションコーディネート
強瀬誠
キャスト
趣里、塚尾桜雅、河野宏紀、利重剛、大森立嗣、森山未來
製作年
2023年
製作国
日本
配給
新日本映画社
劇場公開日
2023年11月25日
上映時間
95分

  解説


「野火」「斬、」の塚本晋也監督が、終戦直後の闇市を舞台に絶望と闇を抱えながら生きる人々の姿を描いたドラマ。

焼け残った小さな居酒屋に1人で住む女は、体を売ることを斡旋され、絶望から抗うこともできずに日々をやり過ごしていた。そんなある日、空襲で家族を失った子どもが、女の暮らす居酒屋へ食べ物を盗みに入り込む。それ以来、子どもはそこに入り浸るようになり、女は子どもとの交流を通してほのかな光を見いだしていく。

「生きてるだけで、愛。」の趣里が主人公の女を繊細かつ大胆に演じ、片腕が動かない謎の男役で森山未來、戦争孤児役で「ラーゲリより愛を込めて」の子役・塚尾桜雅、復員した若い兵士役で「スペシャルアクターズ」の河野宏紀が共演。2023年・第80回ベネチア国際映画祭オリゾンティ部門に出品され、優れたアジア映画に贈られるNETPAC賞(最優秀アジア映画賞)を受賞した。

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